庭 冬明の見たり聞いたり歩いたり

     文学者ふたりの愛JR中野駅周辺界隈をめぐって−(平成22年3月)

 JR中野駅周辺界隈編に登場した平林たい子、高村光太郎について書きます。 
 体当たり女流作家といわれた平林たい子JR中野駅周辺界隈その2で紹介は、大正から昭和にかけてプロレタリア文学推進の草分けだった「文芸戦線」などによって作品を書いていました。そのため官憲の弾圧をうけ、後年その体験を書いた「こういう女」が認められ、昭和21年度第一回女流文学者賞を受賞。そうした自伝的作品「冬の物語」「私は生きる」など次々に発表します。いずれも体験を赤裸々に描いたもので、高い評価を得ました。私生活面では色々とありましたが、22歳の昭和2年に「文芸戦線」編集人の仲立ちで、新進の戯曲家である小掘甚二と見合い結婚をします。けれどもうまくいかず喧嘩をしたり別居もします。

三十歳時代のことを「夫のある妻として恋愛に悩み、芸術の道には行き暮れ、夫とは確執し、投獄と病気と病気とで無残に生活を裂き苛まれた地獄の年代だった。」(三十女について)と記していますが「こういう女」の中では、「夫婦の生活が楽しくて楽しくて飽きられない私のような人間」とも書いています。

l旅館「生稲」のあったあたり平林たい子の住んだ旅館「生稲」はレンガ坂先、左側にあった

昭和12年の人民戦線事件と呼ばれる弾圧では、夫が検挙の際に逃走したので、身代わりに召喚され拘留されてしまいます。それを知った夫が自首したのに釈放されず、その間に肋膜炎に腹膜炎を併発し危篤になってようやく釈放されました。生死をさまよう病状に、収監中の夫は臨終面会の許可をとり少しの間看病を許されます。それに励まされたのか、奇蹟的に恢復に向かいました。

やがて釈放された夫は、過労と栄養失調で左眼が失明するほどの献身的な看護をするのです。病状悪化に責任を感じていたからなのでしょうか。たい子もそんな夫を見直したようです。ところが、昭和29年、夫と家事手伝いの女性の間に5歳の子供があることが分り、激しいショックを受けます。自伝的長編作品「砂漠の花」は上京してからの生活を綴ったものですが、その終末には、夫から子供の写真を見せられた時の様子が描かれます。

 『ある日、夫はひょっくり帰って来て、いきなり私の机の上に写真を置いた。見なれない、五六歳の女の子の写真だった。/「誰の写真ですか」/「俺の子供だ」/「えっ」/私は半信半疑だった。が、それを信じさせる深刻な表情をしていた。/「誰が生んだんです」/と、夫は、あのとき妊娠して出て行った女中の名をいった。たちまち、机上にあった呼鈴が夫の横顔にとんだ。なお、机上にあったものが、逃げかかった夫に向けてつぎつぎにとんだ。』

 決定的な破局を迎えたのですが、たい子は手を切らせ、夫を取り戻そうとします。うまくいくはずはなく、話し合いでは母子に家を一軒建ててやるという約束で、それまで友人が母子を預かり、毎週一回だけ子供を連れてあうということで妥協したのですが、この解決は不満だったとのべています。結局、小掘がドイツから戻ってきた昭和30年、協議離婚ということで決着をみます。

 昭和34年、小掘が狭心症で急死した時には「未練があったのでもない。憎んでいたのでもない。生きている限り、離婚はとうとうできなかった。法律上、はとにかく、生きている間は夫婦だったのだと私は思う。(中略)/『いつでも取り返せる』という気持に支えられて、あるいは私は生きていたのかも知れない。/今度こそは取り返せなくなった。私にとって、それは痛切な思いであった。」(喧嘩別れした夫の死)
                            中野五差路にあった中野光座(平成22年取り壊し)

中野五差路に今も残る中野光座の看板

 とせつない本音を書いています。かつての夫の死に遭遇し、自分を支えていた夫への思いを、いまさらながら知ります。たい子も、ごく平凡な夫婦と同じ悩みをかかえた、ひとりの女性だったのです。

 次に彫刻家で詩人、高村高太郎JR中野駅周辺界隈その3で紹介】の、詩集「智恵子抄」に描かれた妻、智恵子との愛を紹介します。

光太郎は明治16年、木彫家の高村光雲の長男として生まれ、木彫の道に入ります。明治3520歳で東京美術学校彫刻科を卒業しましたが、研究科に残ります。その頃ロダンの作品を知り心を動かされ、明治39年、決意してニュョークに渡ります。さらにロンドン、パリと移り住みますが、父の意向もあって明治42年に帰国。しかし日本美術界の旧態依然のありさまに絶望し、放蕩自堕落の生活をしていました。そんな明治44年、人を介して長沼智恵子に会い、生活を立ち直らせる転機をむかえるのです。感受性が豊かで自分をしっかり持っている女性をみたのははじめてと、後に記しています。

洋画家をめざす智恵子は、光太郎にひかれ熱烈な手紙を書きます。犬吠埼では偶然と思わせる出会いをして、一緒に散歩や写生をしたりするのです。一方光太郎は智恵子との出会いに運命を感じ、ほかに心を許すべき女性はないと思うようになります。そして両親をおしきり、大正3年に結婚します。この年、帰朝してから書き溜めた作品を詩集「道程」として刊行しました。            高村光太郎旧居跡へのアクセス                   
 両親と別居し、アトリエ(当時の駒込林町25)での生活がはじまります。土地家屋など一切は両親と同居している弟夫婦の所有にすることにきめ、まったくなにもない貧乏生活だったのですが、江ノ島に遊んだり、智恵子は乗馬を習ったりと幸せな日々でした。この頃の彫刻作品「智恵子の首」は愛と気迫が感じられるといわれます。

しかし、智恵子は画家としての芸術精進と妻としての家庭生活の板ばさみになり、精神的に不安な状態で、肋膜炎になって病みがちになります。福島二本松にある造り酒屋の父親が亡くなり、その後、昭和4年に実家長沼家は破産し一家が離散します。そうした「心痛苦慮」から智恵子は昭和7年自殺未遂を起し、精神分裂症の兆候が現れるようになりました。

光太郎は心をいため、温泉めぐりをしますが逆効果となってしまい、母と妹の居る九十九里浜に転地療養させました。しかし病いは進み「松林の一角に立って光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになった」(智恵子の半生)ので、止むを得ずアトリエに連れ戻るのです。けれど自宅療養も無理となり、南品川のゼームス坂病院に入院します。光太郎は毎週通いつめ、智恵子の容態に一喜一憂して、智恵子の作る切紙絵をみせてもらうのです。「百を以て数える枚数の彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある」(智恵子の半生)

不憫な智恵子へのやさしいまなざしが分ります。

病院では、看護婦だった姪の長沼春子が付き添っていましたが、昭和13年、粟粒性肺結核により53歳で没しました。悲しみのうちに年は暮れ、次の年「レモン哀歌」が生まれます。

レモン哀歌の詩碑ゼームス坂病院跡、レモン哀歌の詩碑

そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱつとあなたの意識を正常にした(「レモン哀歌」前半)

平成7年、智恵子が療養生活をおくり、息を引き取ったゼームス坂病院跡地(品川区南品川67)の桜の下に、「レモン哀歌」詩碑が建立されました。原稿を拡大した「レモン哀歌」が刻まれています。

光太郎は、智恵子のなくなった後、追慕して「山麓の二人」「亡き人に」などの悲痛な挽歌を書きます。なかでも「山麓の二人」には壮絶な愛と無常が表現されているように思えます。

詩碑下にある自筆詩文の刻まれた銘板  碑前の地面に刻まれている「レモン哀歌」の自筆詩文碑

詩集「智恵子抄」が刊行されたのは三年後になります。生前に書かかれた「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」などをふくめ、「レモン哀歌」「山麓の二人」など詩29篇と短歌6首、散文3篇を収録した詩集です。昭和168月、太平洋戦争勃発の時期でしたが、極限の愛を表現する詩は感動を呼び、敗戦の年までに13刷を重ねたといいます。ドラマや音楽作品にもなりました。

戰時中、光太郎は戦争賛美の詩をいくつも書きました。昭和20年空襲で智恵子と住んだ東京のアトリエ(現・文京区千駄木522)をうしない、岩手花巻に疎開し敗戦を迎えますが、戦争中自分の詩が青年たちを戦争にかりたてた責任をとるとして、岩手県山奥の太田村に蟄居して、山小屋で農耕自炊し健康を害しながらも、みずからを罰する生活をおくります。そして智恵子を偲び、自己の半生をかえりみる詩を書き、昭和25年詩集「典型」詩文集「智恵子抄その後」を発表します。「典型」の序に「…この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と戰時下に犯した罪過への苦悩を記しています。

レモン哀歌詩碑へのアクセス 

詩集「典型」の中心をなす「暗愚小傳」のひとつ。

「母はとうに死んでゐた。/東郷元帥と前後して/まさかと思つた父も死んだ。/智恵子の狂氣はさかんになり、/七年病んで智恵子が死んだ。/私は精根をつかひ果し、/がらんどうな月日の流の中に、/死んだ智恵子をうつつに求めた。/智恵子が私の支柱であり、/智恵子が私のジヤイロであつたことが/死んでみるとはつきりした。/智恵子の個體が消えてなくなり、/智恵子が普遍の存在となつて/いつでもそこに居るにはゐるが、/もう手でつかめず聲もきかない。/肉體こそ眞である。」(おそろしい空虚・前半)
智恵子が私の支柱であり、ジヤイロであったと書いています。「典型」は翌年第2回読売文学賞をうけました。

智恵子を思慕する作品は「智恵子抄その後」以降も書かれ「智恵子と遊ぶ」「報告」と昭和27年まで書かれます。「智恵子と遊ぶ」は普遍的存在となった智恵子と夢幻に遊ぶユニークな作品です。

今も残る中西アトリエ今も残る中西アトリエの建物

昭和27年制作依頼により上京、中野区桃園町中西アトリエで裸像制作に入ります。同28年には「乙女の像」原型が完成し、10月十和田湖畔に建立されました。光太郎はその除幕式に出席したあと、健康を害し療養につとめますが、昭和31年岩手の山小屋に戻ることなく74歳で沒しました。

智恵子は自分と一緒になったばかりに、さまざまな重圧で心を乱していったのではないかと哀れに思えて、光太郎は終生、悩みながら生きたのではないでしょうか。

はじめに紹介した平林たい子の事例は、私たちの身近かにいくらでも起き得る煩悩の世界ですが、高村光太郎は、新婚後、狂気になっていく智恵子を見守り、そして病院で力尽きた智恵子を看取るという、極限の状況に耐えながら、おのれに厳しさを課し名作を残した、たぐいまれな芸術家といえます。

愛の姿はさまざまです。平林たい子と、高村光太郎の愛の軌跡を紹介しました。

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