鷺宮界隈その1


 西武新宿線鷺宮駅南口を出ると目前に妙正寺川が広がる。妙正寺川は杉並区清水町妙正寺池を水源とし、下流の哲学堂公園先の落合橋までを流れ、神田川に合流する。妙正寺川の全長は9.7Kmという。

 妙正寺川鷺宮付近

 その妙正寺川流域の小動物を主題にする、詩人の妙正寺川鷺宮附近菊田守(1935-  )は白鷺2丁目に住み妙正寺川を遊び場として育った鷺宮ッ子だ。昭和351詩集「昼の砂」から平成23年までに14詩集「カフカの食事」を刊行。第7詩集「妙正寺川」に収められた詩は、かつて自然にみちていた妙正寺川を哀惜する、いわば挽歌といってよい。「生命の詩を書く」の中で「私の幼年時代、私の住む白鷺(以前は鷺宮二丁目)の辺りは田園地帶で、田んぼと畑と雑木林があり、田園地帯の中をゆったりと妙正寺川が流れていた」と書いているが、いまはコンクリートで固められ、付近も変わり果てた。「妙正寺川」の一篇「妙正寺川」の初節はこう書かれている。「川の光がわたしの顔を照らし/目の中を目高が泳いだ/わたしの妙正寺川は/こころの中を流れている」川の命脈を見守る詩人の心情は切ない。平成6年第1回丸山薫賞を第8詩集「かなかな」により受賞。小動物や自然への深い思いやりを抒情豊かに表現したのが高く評価された。平成18年、詩論エッセイ集「夕焼けと自転車」は、詩人の半生がこめられた、味わい深いものがある。平成23年刊行の詩集「カフカの食事」には、詩人の死を予感する生命のひそかな叫びが、通奏低音のように流れていて切ない。壷井栄旧居附近
                  壷井栄旧居付近   
 西武新宿線鷺宮駅南口から目前の宮萬寿橋を渡って八幡神社参道を進む。この社は1064年の創建と伝えられ、昔は境内の森に鷺が棲みついていたので鷺宮の地名がついたという。神社の十字路からさらに細くなる小道のつきあたりが「二十四の瞳」の作者として知られる壷井栄(1899-1967)の旧居(白鷺1丁目18)。瀬戸内海、小豆島の生まれで26才の時に上京、昭和17年に夫で詩人の壷井繁治(1897-1975)と居を構えた。以来66才で亡くなるまでこの地に住んだ。のちに「鷺宮二十年」の中で、当時を「ガスも水道もない。一足出ると西も東も田圃である」そして「三月九日の大空襲のあと、続々と家を焼かれた人たちが移ってきた。佐多稲子さんが戸塚の家を引き上げて鷺宮に移ってきたのもそのころだった」と記す。
 戦後、ふるさと小豆島を舞台にした「二十四の瞳」は木下恵介監督、高峰秀子主演で映画化され、みるものに感動をあたえた。「母のない子と子のない母」童話集「柿の木のある家」がいまも愛読されている。 

 
近くに住む壷井栄の縁で「二十四の瞳」の舞台となった内海町立苗羽小学校と若宮小学校は姉妹校となった。その近く妙正寺川に新設された橋は小豆島にちなんだオリーブ橋と名付けられ、オリーブ色のデザインがさわやかに人目をひく。小学校内には平成6年に地域生涯学習舘として若宮オリーブ舘(若宮3丁目53)が開設され、橋の近くに区立若宮オリーブ公園もあり、オリーブが植えられていて、この地を愛した作家の思いがいまも生きている。

                                 白鷺の屋敷森 

白鷺の屋敷森

 旧宅から右に道をとり、すぐの角を左に曲り、南方向(阿佐ヶ谷方面)に歩くと、欅の大木のある屋敷森が見えてくる。そこをぬけた十字路を左に曲って急坂をくだる区立ネムノキ公園のあたり(白鷺1丁目11)に阪田寛夫(1925―2005)が住んでいた。昭和49年第72回芥川賞を「土の器」で受賞、他に川端康成賞、日本童謡賞などを受けている。誰でも知っている童謡「さっちゃん」「ねこふんじゃった」「おなかのへるうた」の作詞をしたことで知られる。

 転居した昭和32年頃のことを、随筆集「菜の花さくら」の中で「坂を降りてすぐとっつきの田圃に石ころやかわらけを投げこんで盛土をして、『テラス・ハウス』という、その頃住宅に困っていた私どもにはうっとりする響を持った、住宅公団の分譲式二階長屋アパート(鷺宮住宅)が建てられた。横手の高台に樹木と家が並んでいるほかは、三方が田圃と畠で、春が来てつむじ風が吹くと、細かい砂が締め切ったガラス戸の内側にいつのまにか降りつもっており、初夏の夜は大小さまざまの蛙の声が天につらなり、秋口に台風が来ると川と溝と潅漑用水路のすべてが氾濫して(以下略)」と記している。その田圃のあたりはいま都営住宅がひしめくように建っている。

    坂田寛夫旧宅附近

坂田寛夫旧居阪田の住んだ鷺宮住宅付近に、昭和32年頃から阿川弘之(1920− )が6年間ほど住んでいた。昭和28年「春の城」で第4回読売文学賞を受賞。同31年、予備士官としての戦争体験をもとに戦争の悲惨さを描いた「雲の墓標」を刊行。同41年に書かれた「山本五十六」は、スケールの大きい伝記文学として第13回新潮社文学賞を受けた。平成11年には文化勲章を受章した。大の乗り物ファンで「南蛮阿房列車」など乗り物についての著書も多い。食通でもあり「食昧風々録」(平成13年刊)は読売文学賞を重ねて受けた。
 娘のエッセイスト、阿川佐和子(1953- )は「いい歳、旅立ち」で、鷺宮と題し幼稚園から小学3年生までを過した頃を「団地仲間の子供は、それぞれの家の庭先の竹垣の向こうから互いに誘い合って遊ぶのが、日課であった。(中略)鷺宮の団地で経験し、覚えたことのすべてが、今の私の原点となっているような気がしてならない」と記し、また、かよった「のぞみ幼稚園」(杉並区阿佐谷北6丁目)の思い出を「お茶のABCビスケットが出てきた日のうれしかったこと、先生に教えられたお遊戯の振りつけ、オルガンの音色、行き帰りに見つけた葉っぱや虫など、思い出せばきりがない(幼稚園の空気)」と書いている。

佐多稲子旧宅のあったのは坂をくだり右側付近

佐多稲子旧宅附近十字路に戻って次の屋敷森の先へと進み、突き当りを左に曲りしばらく行く。この路は杉並区との区境となっていて、やがて白鷺1丁目1となり、大和町に接する。このあたりに佐多稲子(1904−1998)の旧宅(大和町4丁目44)があった。しょっちゅう行き来をしていた壷井宅とは「私の住んでいる一丁目から二丁目へ行く間に、窪地になってひろい田圃がある。(中略)この田圃のまん中に私の一丁目から壷井さんの二丁目へかけて一本のちゃんとした通路がとおっている。」(丁目は旧地番)と「借金」の中に書かれている。そして「私は夜更けまで壷井さんに遊んだあとは、うちから男の子がむかえに来ないとき、しばしば壷井さん二人にこの道をおくられて帰った」と述懐している。なお、その近く、佐々木基一(1914−1993)(阿佐ヶ谷北界隈その2で紹介)の住いが杉並区側にあった。
 佐多稲子は昭和3年「キャラメル工場から」で認められ、夫の、詩人窪川鶴次郎と共にプロレタリア文学運動に参加したが、昭和7年弾圧が激しくなり、夫や壷井繁治らと検挙されたりした。夫の入獄、自身の転向、そして夫婦とはなにかと苦悩する家庭崩壊寸前までの事情を描いた作品が「くれない」だ。悩みをふっきるように昭和20年、窪川と離婚し、壷井栄の世話で鷺宮にきて、ここには22年から一年半家族と住んだ。38年「女の宿」で女流文学賞を受賞。47年には「樹影」を発表。佐多の故郷長崎を舞台に、被爆者の華僑の女性と画家との十数年間に渉る悲恋の物語。死に脅かされるふたりは、生をいとおしむように愛しあうが、苦痛の果てに死を迎える。深い怒りと哀しみをこめて原爆の悲劇を描き、第25回野間文芸賞をうけた。51年「時に佇つ」で第3回川端康成賞、58年「夏の栞─中野重冶をおくる─」は五十余年に渉って、いわばパートナーのような精神的な結びつきの中野重冶を失い、悲しみのうちに綴った鎮魂歌だ。毎日芸術賞、朝日賞を受けた。
 
坂をくだると蛇行して流れる妙正寺川が思いがけなく近くだ。その鷺盛橋から上流にむかって、かつては一面田圃だった都営住宅の川沿い路を歩いて行くと、やがて鷺宮駅に戻る。

 

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