阿佐ヶ谷北界隈その1


  阿佐ヶ谷文士会              

 昭和4年頃、将棋好きの井伏鱒二(1898−1993)荻窪北口界隈杉並区立文学館で紹介≫を中心に、阿佐ヶ谷近辺に住む文学者たちが阿佐ヶ谷将棋会を作った。支那料理店ピノチオが会場となり、のちに阿佐ヶ谷南にある青柳瑞穂邸になった。青柳瑞穂(1899〜1971)は詩人であり、フランス文学者でモーパッサンなど名訳がある。骨董にも通じ含蓄のある多くの書を残した。なお、孫の青柳いづみこはピアニストであり、「青柳瑞穂の生涯−真贋のあわいに」の書ほかがある。井伏鱒二をはじめ近くに住む上林曉、外村繁、小田嶽夫、太宰治など多くの文学者がメンバーでそれぞれ高い評価を受ける作品を書いた。「阿佐ヶ谷会」と呼ばれたりして、文学史上にも名を残している。2007年ゆかりの青柳いづみこと、評論家川本三郎の監修によって「阿佐ヶ谷会」文学アルバム(アマゾンで購入できます)が刊行された。会に集った文学者たちの交友エッセイなどを網羅し、インタビュー、解説、年表など収録し、「阿佐ヶ谷文士会」の全貌をまとめた貴重な書だ。

阿佐ヶ谷駅前JR阿佐ヶ谷駅北口 ロータリ

 JR阿佐ヶ谷駅は高架になり周辺はビルが林立し、めまぐるしく変わってしまった。ピノチオのあったところは、北口駅前のアーケード街、西友ストア前あたりといわれる。釣り好きの井伏がはじめて鮎釣り道具を揃えたという大沢釣具店もこのあたりにあった。阿佐ヶ谷将棋会は戦後、阿佐ヶ谷会と名を改め、多くの文学者が集まり続けられてきたが、昭和47年に解散した。

JR阿佐ヶ谷駅北口から三菱東京UFJ銀行脇を右折し商店街を進むとまもなく三叉路となり、左を行くと河北総合病院(阿佐ヶ谷北1丁目7)がある。昭和27年「罪な女」で第27回直木賞を受賞した藤原審爾(1921-1984)は、戦後ここに入院し病床でいくつもの作品を書き上げたという。岡山県にある奥津温泉を舞台にした「秋津温泉」は第21回の候補作品になり昭和37年に吉田喜重監督、岡田茉莉子・長門裕之で映画になった。大衆小説に才筆をふるい、昭和23年から59年まで阿佐ヶ谷、天沼などに住んだ。女優、藤真利子はその娘さんだ。

 昭和58年、寺山修司(1935-1983)が入院し、47才の若さで死去したのもこの病院である。寺山は短歌・戯曲・演劇など多彩に活躍し、その前衛、異色の才は常に注目をあび、昭和50年、阿佐ヶ谷付近を中心に市街劇「ノック」を上演した時には新聞の社会面を賑わせた。寺山の作詞「時には母のない子のように」は、カルメン・マキが歌って大ヒットした。

なお、商店街なかほど左側、けやきの森の案内板のある「大古久」の横を入ると、若葉を広げたけやきの森が現われる。通称けやき屋敷。かつての旧阿佐ヶ谷村名主、相沢家の屋敷森でけやきの巨木があり、都の指定旧跡になっている。

                   閉院した篠原病院篠原病院附近

 三叉路に戻り、その先の角に立つ建物は、篠原病院(阿佐ヶ谷北1丁目9)が建て直されたもので、かつて大正ロココ調木造二階建てがあった。昭和10年、太宰治(1909-1948)は盲腸炎をこじらせ入院し緊急手術で一命をとりとめた。改築後、数年で閉院となり、今は有料介護ホームとなっている。

 旧篠原病院左手の路をすすみ、十字路四ッ目、ミラーのある交差点近くに(阿佐ヶ谷北1丁目12付近)宮虎彦(1911-1988)が住んでいた。いまは変ったが昭和13年、新婚で「阿佐谷北口の天祖神社裏の、煙草屋の前を右におれる露地の一軒」だったこのあたりに住み、きびしい作家修業をつづけた。歴史小説「霧の中」「落城」を発表し、昭和25「絵本」が第23回芥川賞候補となり、第5回毎日出版文化賞をうけた。
田宮虎彦旧居附近

田宮虎彦旧居のあったあたり

 下宿の大学生を主人公にした「絵本」は、下宿のギプスをはめた寝たきりの少年や、同宿の新聞配達をする貧しい中学生との触れあいを暗い時代を背景に描く。中学生は追いはぎを働いたというかどで拷問を受け、冤罪と分かり放免されたが雨の夜に死ぬ。その堪えがたい悲しみから下宿を出るのだが、童話の美しい絵本を少年に贈って別れる清冽な詩情をたたえた作品だ。昭和
24年に書かれた、父との対立、母への死など挫折の思いから死を求め岬を訪れた主人公がへんろう宿の同宿者たちに次第に癒されていく「足摺岬」は、絶壁に打ち寄せる怒涛の荒海が心象風景として描かれ、昭和の名作のひとつだ。「足摺岬」は昭和29年、吉村公三郎監督、木村功、津島恵子で映画化された。

田宮虎彦の住んだ阿佐ヶ谷北1丁目12付近、ミラーのある交叉点を右折し、次の十字路を過ぎたあたり左側(阿佐ヶ谷北5丁目1)に、北原白秋(1885-1942)が住んでいた。

                          北北原白秋旧居附近原白秋旧居付近

白秋は新詩風の「邪宗門」で世に認められ、抒情小曲集「思ひ出」歌集「桐の花」をあいつぎ刊行し、詩壇の中心的存在になり、童謡、民謡などの世界でも数多くの作品を書いた。よく知られた詩として「落葉松」がある。歌曲では「城ヶ島の雨」、山田耕作作曲の「この道」「ペチカ」「からたちの花」はいまも愛唱されている。白秋は晩年の昭和15年にこの地に移り住んだが、薄明微茫とみずから称した病がすすみ56才で没した。九州柳川には北原白秋記念館があり、作品は北原白秋詩集や白秋青春歌集で読むことができる。

旧居先のp寺跡墓地を左折し細い路を進むと、距離があるが右手に馬橋公園(高円寺北4丁目35)が見えてくる。昭和60年、気象研究所の跡地を公園としたもの。十二種もの樹木が植えられ、すずかけのきの巨木には思わず眼をみはる。

公園際のヤマサ木材店の角を左折した先の十字路付近(阿佐ヶ谷北5丁目25)には、亀井勝一郎(1907-1966)《野方沼袋界隈その1で紹介》が昭和7年からしばらくの間住んでいた。当時、プロレタリア作家同盟に加わり活躍していたが、弾圧をうけ転向し、のちに日本の古典、古美術、歴史に関心をふかめ、戦後「我が精神の遍歴」「大和古寺風物誌」など名著をあらわし、第2回読売文学賞をうけている。

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