阿佐ヶ谷北界隈その1


中原中也の住んだ中野

 JR中野駅周辺界隈その1」でふれた、詩人中原中也(19071937)あらためて紹介する。すい星のように昭和初年代に登場し、早世を惜しまれた中原中也の詩はいまも熱っぽく読まれている。
「汚れちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れちまった悲しみに/今日も風さえ吹きすぎる」を口ずさんだ方も多いであろう。
大正143月、18歳で同棲していた長谷川泰子と上京し、以後、旧桃園町付近を転々とした。大正144月から5月、中野町打越1985へ。そこから杉並町高円寺249に5月中旬から移り住む。

中野3丁目24付近桃園通り二俣から入った中野3丁目24付近

中也はその頃、小林秀雄、永井龍男ら文学者と出会い、日々文学論を交し詩作に励んだ。その11月、長谷川泰子は三角関係を精算し小林秀雄の許に去った。親友に泰子を奪われた中也は、のちに別離の苦渋を「我が生活」に書く。
 「私は恰度、その女に退屈してゐた時ではあつたし、といふよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑してゐた時なので、私は女が去つて行くのを内心喜びもしたのだつたが、いよいよ去ると決つた日以来、もう猛烈に悲しくなつた。」と未練げに書き、また「とにかく私は自己を失った。而も私は自己を失ったとはその時分ってはゐなかったのである。私はた
口惜しかった。口惜しき人であった」と負け惜しみを書いている。

 泰子が去った後、
11月下旬から大正155月まで中野町桃園3398に下宿する。それから中野町桃園3465に半年ほど暮らした後、中野町上町の理髪店に一ヶ月ほど住み、前に住んだ中野町桃園3398の下宿に戻り、昭和38月まで住んだ。

 くだりとなる二俣付近の桃園通り                              くだりとなる二俣付近の桃園通り
 中野町桃園3398の下宿を、大岡昇平(1909〜1988)は「中原中也の思い出」の中で、「そこは中野駅からかなり離れた殺風景な湿地に建った炭屋の二階で、室内は小さな机と粗末な本箱があるばかりで、鴨居に掲げられたカリエールの『ヴェルレーヌ』が部屋の唯一の装飾であった。」とあり、「朝の歌―中原中也伝」では「当時の桃園町は中央線の東中野と中野の中程の南側、線路から七、八町隔った、恐らく田圃を埋めたてて出来た住宅地で」「下宿の裏に蓮池があって」と書いている。   
 それに従ってJR中野駅からの道を辿ってみる。中野通りを渡り、線路際またはレンガ坂から桃園通りに入って南に進む。
 中屋米店を過ぎてからくだりになる二俣の右側を入って行くと、道は突き当るが、その手前右側付近が中野3丁目24で邸宅地となっている。中野区内で一番長く住んだ桃園3398の地は、突き当りを左に折れすぐの道を、ちょっとくだると桃園川緑道の鳥見橋になり、さらに行くと大久保通りにでる。
 その左角地付近が中野3丁目1になる。      

                       

 大久保通りから望む中野3丁目1付近大久保通りから望む中野3丁目1付近

 昭和11年に書かれた「詩的履歴書」によれば、初期の代表作である「朝の歌」はこの下宿(桃園3398)で書かれた。「大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ」と記している。
 発表されたのは、昭和3年5月、諸井三郎作曲の歌曲の歌詞としてで、中也の詩が活字になった最初である。
中也の詩の原型となった作品。

 「朝の歌」の前半。

 天井に 朱(あか)きいろいで/戸の隙を 洩れ入る光、/鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ/手にてなす なにごともなし。

 小鳥らの うたはきこえず/空は今日 はなだ色らし、/倦(う)んじてし 人のこころを/諌(いさ)めする なにものもなし。

桃園川緑道鳥見橋付近           桃園川緑道 鳥見橋付近

 大岡昇平は「朝の歌―中原中也伝」の中で「『朝の歌』は中原の下宿の一室における目醒めを歌ったものであろう」と書いて「下宿でも雨戸があった古きよき時代である。しかしやはり軒下のどこかに隙があって、天井裏にさし込んだ朝の陽が、天井板の薄い部分を赤く照し出しているという、極く庶民的な情景を、詩は表わしているのである。」と解説を加えている。
 作品の情景はこの下宿ではなく、前に泰子と住んでいた高円寺の下宿だとする説もある。


 大岡は昭和3年に知り合った時のことを「中原中也の思い出」で「私が初めて中原に会ったのは、東中野の小林秀雄の家である。或る日―たしか三月の初めだったと思うが―私が入って行くと、荒い紺絣に黒の兵児帯をしめた、まず田舎出の学生といった風の若い男が笑いながら何か喋っていた。中原と紹介されて、私はその外貌のあまり平凡なのに驚いた」と書くが、べつの個所では日頃の姿を「黒いあまり上等ではない布地の長い背広、同じ布で裁たれた細いズボン、それが包むのは少しガニ股の短い足である。丈は極めて低くたぶん五尺そこそこだったであろう。その躯幹にふさわしい細い弱々しい首の上にはしかし眼の大きい鼻の高い端正な顔が乗っていて、その顔が身長の関係からいつも心持上を向いて、主として家々の軒よりもやや上のあたりに眼を漂わせながら動いて行く―」と、特異な風貌を描いている。大岡の書に引用されている、今日出海の文では「黒の背広だが、相当にくたびれた服である。それに両方の上着のポケットははち切れさうに一杯ものが詰ってゐる。洋服のポケットを鞄の代用と心得てでもゐるのか。表紙のとれた雑誌や或ひは洗面道具らしいものが顔を覗けてゐる」とある。

冬の長門峡冬の長門峡 ウィキトラベルより

 昭和4年、文学仲間をあつめ同人雑誌「白痴群」を創刊、詩編発表の場とするが、翌年終刊してしまう。昭和7年第一詩集「山羊の歌」をまとめるが、資金不足などでなかなか発刊できず、昭和9年、高村光太郎(JR中野駅周辺界隈その3で紹介)の装幀でやっと刊行された。

昭和12年、30歳で急性脳膜炎にて死去。没後昭和13年「在りし日の歌」が刊行された。

死の前年に書かれた「冬の長門峡」を筆者はいつも襟を正す思いで読む。故郷山口の景勝地長門峡、その静かな情景の中で、詩人の孤独な魂がふわりと漂っているように感じる。若き日からの友、河上徹太郎(1902〜1980)はこの詩を「思いなしか辞世とも故郷への永訣(えいけつ)の辞ともとれる忘れがたい詩である」と「解説―中原中也―人と作品」の中で記している。山口市湯田温泉の生家跡地には、中原中也記念館がある。(中原中也についてはJR高円寺駅周辺界隈でも紹介)

 千光前町

かつて「ほととぎす」のあった勤労福祉会館付近  「ほととぎす」のあった区立勤労福祉会館付近

 JR中野駅南口あたり一帯は旧中野駅前町と呼ばれていた。駅前から左手、線路際の坂道をあがって行くと、坂を登りつめたあたりから、旧千光前町(現中野2丁目)になる。この道は千光前商店街となって賑わい、中野中央図書館・なかのZEROまでつづく。千光前の名は、いまの堀江老人福祉センターがもともと千光院と呼ばれた堀江氏の墓地であったことからついた。(中野区報「なかのを歩く」)

サンクス手前を右に入ると、その先の左手に見える建物が、区立勤労福祉会館・女性会館(中野2丁目1314)で、このあたりにかつて料亭「千光閣ほととぎす」があった。

 昭和28高村光太郎(JR中野駅周辺界隈その3で紹介)が制作した裸婦像原型が完成したときの報告会はここで開かれた。十和田湖畔に据えられる裸婦像の台石を設計した谷口吉郎、依頼主の青森県副知事で歌人の横山武夫らが出席した。

 戦後三十年代後半には、阿佐ヶ谷文士など文学者の集まりに利用された。昭和36年の記録をみると青柳瑞穂の読売文学賞祝賀会、同じく木山捷平芸術選奨祝賀会、尾崎一雄芸術院祝賀会、外村繁澪標(みおつくし)忌、また「竹の会」の集まりが行なわれている。あまり知られていない「竹の会」について記してみる。

勤労福祉会館に残されたつくばい区立勤労福祉会館敷地内に残されたつくばい

 小沼丹(久我山界隈その2荻窪北口界隈で紹介)が昭和47年に書いた「竹の会」にその由来がある。作品は恩師谷崎精二(18901971・英文学者・谷崎潤一郎の弟)との出会いと長年の交友をユーモアのある文章で淡々と描いたものだ。戦後二、三年して谷崎が主宰していた「早稲田文学」が廃刊になった時、井伏鱒二が「ひとつ谷崎さんを慰める会をやりたい」と相談され、文学部前の喫茶店「早稲田文庫」で最初の会が開かれた。最初の会の出席者は、谷崎精二、青野季吉、保高徳蔵、井伏鱒二、浅見淵、逸見広、小田嶽夫、木山捷平、村上菊一郎、吉岡達夫、小沼丹の十一名。主として阿佐ヶ谷文士のメンバーである。

 「何でも秋の初めで、谷崎さんを中心に会場の奥座敷で賑かに飲んでゐると何となく雰囲気が出来上つて、誰が云ひ出したか忘れたが、この会はこれ一回でなく今后も続けてやりたいと云ふ話になつたら一斉に拍手が起つたやうである。それから、あれこれ会の名前を考へた。座敷の外にちよつとした庭があつて、竹が植ゑてある。その竹が夜風にさらさらと鳴つた。

 竹があるから竹の会はどうだらう? と誰かが云つてそれに落ち着いたが、さう云ったのは井伏さんだつたかもしれない。以下略」

勤労福祉会館に残された庭石    区立勤労福祉会館敷地内に残された庭石

現在「千光閣ほととぎす」の面影をわずかにとどめていると思われるものは、勤労福祉会館敷地に点在する庭石や、入口にある欅の大木であろう。 

人、短篇小説家の木山捷平(19041968)「酔いざめ日記」(昭和50年刊)には、「千光閣ほととぎす」での仏文学者、新庄嘉章(19041997)との実に四年越しのトラブルが描かれている。

 昭和39年「(二月二十四日)竹の会、尾崎一雄芸術院祝賀と鈴木、村上両氏の海外留学の歓送会を併せての会。─中略─ この会のあと、新庄嘉章泥酔して握手せり。指、ポキリと鳴った。この音、浅見君もきいていたといっていた。ひどい痛みを感じて帰宅。」この痛みはなおらず、四月二十四日にも「先日より新庄君にやられた右指痛み悲哀を感じる。大切な右指だ。ひどいことになったものだ。下歯の虫歯も痛む。」六月十六日には「右指痛み益々強く、昨日夕方三鷹新川病院に行く。─中略─指の怪我は微妙な骨組や~経があるので、容易に痛みはとれないであろうといわれがっかりした。新庄はひどいことをしたものだ。人には判らぬ苦しみだ。痛みだ。」と書く。

随筆「握手の被害」を日本経済新聞に書き、八月には実名で「薬指」を雑誌「風景」に載せ、新庄を糾弾した。昭和402月には「原稿十枚ばかり書いて一休み。左の下の歯が痛む。手の指も痛む。痛いことばかりでロクなことなきようで悲し。」同6月には「昨夜おそく書いて新庄嘉章宛のハガキを投函す。指の怪我一年一ヶ月いたみつづけてこの頃悪化のかたむきあり。どうしてこんなことをしてくれたのか。ぼくはその理由が知りたい。痛みが辛抱しきれない。」と恨み言を書く。

  昭和419月には「小説新潮」に新庄が書いた随想を読み「人に怪我をさせておいて、弁解じみた上
、尚又恐ハクされているとは、大学教授とは世渡りのうまいものだ。小生の苦痛に対していささかの反省もないので、お詫びの言葉すら一言もないのだ。又近くに棲みながら、挨拶の礼あって然るべきだと思うが、しかしある友人は新庄の味方らしく、小生の態度がよくないといったそうだ。新庄の機嫌を損うことを恐れている人もあることを知った」と烈火のごとく怒る。
 区立勤労福祉会館モニュメント「母と子の平和」勤労福祉会館モニュメント「母と子の平和」

422月には「この頃、右指烈痛で夜何度も目がさめる。目がさめると新庄のこと、何故こんなことに、ひどいことになったんだと怒鳴りたくもなる。他人の知らない痛みに耐えて耐えているのだ」そして翌日「小田嶽夫氏の話。一月三十日のカルパドスの会で新庄とのみ、新庄から仲介を依頼された由、返事せず。本人が直接面会しての和解が本当の和解で、仲人など、あれこれと、策動的な行動は許せない。何故本人が、話を素直にしないのか。それは、自分の行動がまだ正しいという術を知不知のうちに抱いている証拠だ。痛みに泣いている人間をまだ高見の見物の如き態度あり。絶対に許し難し。小生は一分の魂を貫く根性である。」と記した。そのあとすぐ新庄嘉章より手紙来るとあり、数日後「田辺茂一氏(注・当時、紀伊國屋書店社長)と逢ったとき、新庄と仲直りせよといわれた」とあり、以後、記述はなくなる。どのように決着したか日記ではうかがい知れないが、昭和43年元旦「右指痛む。つくづくと見てこの痛み終生癒えざるを悲しむ」とある。同年8月に食道癌で死去。64歳だった。昭和文壇のエピソードを紹介した。
 「酔いざめ日記」は、昭和7年から終焉まで、(27歳から64歳)の日記を抜粋したもので、まさに昭和文壇史といってもよいほどの、文学仲間との交遊を詳しく記している。
 ちなみに夫人の木山みさをによる、捷平の人柄を記しておこう。「家庭では神経質で、私はひやひやしてくらしておりました。彼は長い間の忍耐生活で、神経性円形脱毛症を患った頃は心悸亢進で苦しみ、抑圧した神経の変化であったことを知りました。ふりかえってみますと、貧しさも案外苦にしなかったのは、外見的にズボラでグウタラで、とことんまで落ちてしまって居直った格好とも見えました。どうにもやりきれぬ悲しい苦しいとき、ヘマばかりやって、それが一種の風格ともみえたようでありました。」(「酔いざめ日記」あとがき)


  千光前通りの桜風景、奥右手がなかのZERO地区千光前通りの桜風景

千光前通りは、なかのZEROまでつづく。電線を地中化し歩道を広くした通りはモニュメントが散在し、しゃれた雰囲気がある。なかのZEROの手前、トヨタ・レンタリース角を右折すると、すぐの変形十字路に出会う。まっすぐに急坂をくだって左方向、中央2-4(旧千光前町25)に不遇の詩人、
遠地輝武(1901〜1967)が住んでいた。 大正12年、日本美術学校を卒業。ダダイズムの影響を受けた詩集「夢と白骨との接吻」を発表する。のちブロレタリア詩人として活躍。

 昭和5年に、木村好子の筆名で詩を書く夫人と共にこの地に移り住み、貧苦、宿痾(しゅくあ)の結核に悩まされながら、風刺や諧謔がちりばめられた、ほのぼのとした詩を書いた。美術評論家としても「現代絵画の四季」など著作も多い。

千光前通りモニュメント「プロメテゥス」千光前通りのモニュメント「プロメテゥス」

 遠地とつきあいが長くよき理解者であった潮流詩派の村田正夫(1932〜 )は、「遠地輝武ノート」の中で「遠地輝武の作品は身辺に焦点をあてた、病苦、死、妻、老、孤独というテーマを好んで扱うようになり、私たちがときに古風であると批判しても、断乎としてその古風をひっさげて独自の“の世界をひろげていった」と書いている。

 遠地の晩年は辛く哀しい日々だった。肺結核での闘病生活を余儀なくされていた昭和34年、ガンとの長いたたかいの果てに、夫人は詩集「極めて家庭的に」を遺し他界。そして昭和42年自身の病気が悪化して、脳軟化症を併発し死去した。行年六六才。晩年七年間の詩をまとめた詩集「千光前25番地」は発刊が間に合わず、霊前に供えられたという。

 詩集「千光前25番地」から「千光前風景1」を紹介する。

 千光前にお寺があるとおもうな/千光前はわたしの住む町/ここは駅前通りを一歩入った高台住宅地で/ ―以下六行、中略― /秋がくると 昔 大地主を誇った一軒の/庭の大欅から朽葉がちりしき/淋しい風情をつくるのが移りかわる武蔵野の名残り/この大欅のかげを背にして/茫洋の歳月を雑草にうずもれ だんだん古びて傾いてゆく家がある/その古びたちっちゃい家がわたしの居城だ/わたしの居城にはいつも背をまるくしてわたしが独りおり/悲しい詩をかいたり ごほんごほん咳きこんだり/ときには大欅仰いて四季のうつりかわりにあわれを侘びしみ/癌に喰いころされた妻の/ながい病院ぐらしも終段にちかずいた日に/ふと病院の窓からからだをのりだし この大欅の梢をながめて/千光前二十五番地の あの草ぼうぼうの家に帰りたい 帰りたい/といいのこして死んだ病人のあわれなどおもいだしては/いまだ涙をふく日もあるけれども/根性があるというか ないというか/こん畜生! まだおれは死んでやらぬぞ/といわんばかりの哀しい頑固を 達磨になってドングリ眼ぐりぐり/千光前にお寺など
あるとおもうな

急坂をくだると左手に遠地輝武の住んだところとなる         急坂をくだった左手付近に遠地輝武が住んでいた

昭和43年に出された「遠地輝武研究」中で、詩人のタマキ・ケンジ(1926〜 )は「いくたびとなくお訪ねした千光前25番地には、既に訪れるべき主はおらず、千光前25番地の町丁番地名そのものが、遠地さんの死とともに永遠に消えてしまった。(住居表示制度の改正によるー筆者注 )詩集の題名としてのみ、『千光前25番地』は遠地さんとともに永遠に残るのである。」と述べている。                    

 JR中野駅北口

中野周辺バス発着の拠点であるJR中野駅北口駅前には、中野区随一の繁華街、中野サンモール商店街のアーケードが目立つ。その中野サンモールには営々とした発展の歴史がある。

昭和4年に鉄道の下をトンネルにして、北口止まりだった中野通りを南北に通じさせることになった。道路が掘り下げられると、周囲の商店通りが置いてきぼりになるということで、当時の北口商店が結集した「中盛会」が、駅を現在地に移転する働きかけをすると同時に、北口周辺の掘り下げ工事を自分たちで実行することになり、大規模な難工事を、中野駅移転とほぼ時を同じくして完工させた。「この工事により、ほぼ現在と同じ地形ができ上がり、中野駅北口がやがて中野区全体の中核的な商業地となる基礎が布かれたといえる」と記念誌には記されている。
サンモール商店街正面

JR中野駅北口サンモール商店街入り口

「中盛会」は戦後の北口広場のヤミ市化された露天商時代を経て、昭和23年頃には「中野北口美観商店会」となった。昭和50年には愛称「中野サンモール」がつけられる。「サンモールの歩み(中野サンモール商店会記念誌編集委員会)」より。

五木寛之(1932〜 )【鷺宮界隈その2で紹介】はその頃の北口の様子を「私たちの夜の大学」(1967年)の中で書いている。
「いずれにせよ、当時の中野界隈は、私たちにとって、本当の大学のようなものだった。」の前書きのあと。

「国電中野駅北口に降りると、当時は正面に〈中野美観街〉の入口があった。この美観街という名称には、横尾忠則描くところのイラストレイションみたいなユーモアが感じられないこともないと思うが、どうだろう。左手に警察学校が見え、右手に公衆便所があって、雨の日にはよく臭(にお)った。美観街をまっすぐ行くと、ぽつりぽつりと私たちの記憶に残る店があった。今はもう消え失()せた名前が多い。いったいに中央線沿線の酒場の名前は変っていて、それぞれにイメージがあった。

JR中野駅北口広場            JR中野駅北口駅前広場

美観街を少し行くと、〈人魚〉という酒場があった。私は何百回となくその店の前を通りながら、最後までその店にははいらずじまいだった。
 扉を開けると、深海のような暗い店内に、人魚のような女たちがじっとこちらを見ていそうな気がしていた。そのイメージをこわすのが惜しかったのと、店頭に定価表が出ていないのが不安で、私はためらったのだった。こんな店名は損ではないかと思う。(中略)

美観街をさらに進むと、左に数本のせまい小路が走っており、その一本に風変りな喫茶店があった。いや現在も残っているから、あると書くべきだろう。古典を意味する〈K〉という名のその店は、私たち中野コンミューンの昼間の議場のようなものだった。(中略)

R〉は美観街を突き当って右へ折れ、更に左、内外映画へ向かって曲った場所にあった。〈R〉とは欧州の幻想画家の名前をとってつけられた店名であるが、私は最初そのことを知らなかった」

昭和27年北口商店街 昭和26年中野北口商店街(なかの写真資料館より)

<人魚>という酒場は美観街入口近く右手にある「わしや」の手前あたりにあった。〈K〉というのは「クラシック」という昭和5年創業の喫茶店で、平成17年に閉店した。〈R〉は「ルドン」で、後の方で触れているが、昭和42年当時になくなっていたようだ。

当時、中野区のアパートに住んでいた五木は、下駄をはき高円寺の平和座や野方の名画座に通い、中野の「クラシック」や「ルドン」などという店に出没した。

「中野の〈R〉のマダムは、決して男たちを魅了しつくす美女というのではなかったが、まことに女そのものの可憐(かれん)さと、現実性とをかねそなえた愛すべき女性であった。彼女には恐らく事業家としての才能はなかったに違いない。その店は決して景気が良くはなかったし、いつの間にかマダムも、店そのものも中野から姿を消してしまっていたからである。 彼女は、若い学生たちのことを、年中ぐちりながら、それでも自分の同志と感じているようであった。彼女は私たちと共に酒を飲み、歌い、大声で笑うのだった」と、マダムに魅せられ通いつめた、若き日を回想している。マダムへの熱っぽい賛辞はなかなか書けるものではない。        
 
 昭和41年、アーケードのあるサンモール商店街の先、早稲田通りまでの間に巨大なビル、中野ブロードウェイが完成した。地下1階から地上4階までは店舗、5階から10階までは高級マンションになっていて、屋上庭園、ゴルフ練習場、屋上プールを備えているという。

中野ブロートウェイ正面         中野サンモールにつづく中野ブロードウエイ入口

 利便もよいので当時このマンションには著名人が住んだといわれる。放送作家からテレビタレント、そして参議院議員、東京都知事になり、話題をよんだ青島幸男(1932〜2006)も、このマンションに住んだ。

 昭和34年フジテレビ「おとなの漫画」の台本を書いて、ハナ肇とクレージーキャッツをテレビの人気者にし、植木等の「スーダラ節」を作詞する。〞分っちゃいるけどやめられねえ≠フ歌は子供までが口ずさむほど当時流行した。テレビドラマ「意地悪ばあさん」に主演。昭和43年には参議院全国区に初当選する。こうした中、昭和56年「人間万事賽翁が丙午」で第35回直木賞を受賞し、誰もが驚いた。書名は故事の「人間万事賽翁が馬」から、ハナの干支(えと)が丙午(ひのえうま)なのでもじったものだ。

 作者が生まれた東京日本橋堀留町の仕出し弁当屋「弁菊」の生家を題材にして、母ハナが21才で弁当屋に嫁入りし、戰時中、夫の次郎(おとうちゃん)の出征から戦後、52才の若さで卒中に倒れるまでの大奮闘人生を描いている。描かれる人物はとにかく個性的で、それぞれ面白い。

中野ブロードウェイ外観中野ブロードウエイの外観

 なにかあると布団に入りぬれタオルを顔にかけてしまう悲観ものの舅は、妾を囲っている。錦紗の羽織にお召しの着物で長火鉢の前に腰をすえ銀煙管を愛用し、居丈高で伝法な口を利く花札好きの姑。おとうちゃんと呼ばれる、ぐうたらのようでなかなか才覚のあるハナの亭主次郎。義兄の太郎は「コテで縮らした髪を油で七三にまとめ、妙にツンした鼻に金縁の眼鏡をのせ」てハナが一番嫌いなタイプ。常識人間の長男謙一。作者の分身と思われる文学青年タイプの二男幸二。ハナの嫁、妻、「弁菊」のおかみ、また女として、さまざまな窮地に立たされながらもめげず、明るく生き抜く姿はいじらしい。おとうちゃんをうしなった火葬場でのハナの胸中はあわれを誘う。終末の文「ハナははてしなくあふれ出る涙をもてあまして立ちつくしていた」で読者はもう一度ハナの過ぎ去った半生に思いを馳せる。

元番頭で「読み書き、そろばんはもとより何事につけても器用」な長老クラスの清さん、町内鳶の頭の元さんなども、なにかあると「弁菊」の二階に詰めてくれ、下町ならではの人情で支えてくれるのだ。ハナの生きた激動の時代、たくましく生きた下町の人びとの哀歓を、才気あふれる筆で描ききった感動の書だ。以後の文学活動、「蒼天に翔ける」「極楽とんぼ」「繁昌にほんばし弁菊」などの著書は、自伝的な楽しい読み物である。

  青島は平成7年、東京都知事を一期つとめ、その後参議院選挙で落選、のち平成15年には政界を引退する。平成18年、血液ガンで死去した。

中野ブロードウェイ早稲田通り口      早稲田通りからみたブロードウェイ

 朝日新聞「おやじのせなか」で、絵本作家でこれも多才な娘の青島美幸(1959〜 )は「父は『おれは幸せだ』と口癖のように言っていました。私からみても好きなことばかりやって、『青い島を生きる幸せな男』そのものだったと思います。こんなに名前通り生きられるなんて、男冥利(おとこみょうり)に尽きるんじゃないかな。うらやましい人生ですよね」と語っている。

                   

   
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