阿佐ヶ谷北界隈その1


  旧桃園町(2)
蝋山邸前を南にくだる急坂 蝋山宅前からの急坂

 蝋山宅前を通り過ぎると急坂になり、道に突き当る。その左方向、中野3丁目11付近に白っぽい建物がみえてくる。桃園川緑道のほとりに位置する。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956)が晩年にアトリエとしたところである。広く読まれている、哀惜きわまりない詩集「智恵子抄」に感銘を受けた方も多いだろう。筆者は不思議な明るさをもつ「レモン哀歌」が好きである。瀬沼茂樹(19041988) (JR中野駅周辺界隈その2で紹介)の「高村光太郎の世界」に簡潔な紹介がある。

 「蝋山政道の邸前の道を南に下って桃園川に出るあたり、その崖側に新制作派協会にぞくする洋画家中西利雄のアトリエがあった。駒込林町のアトリエを戦災で失った高村光太郎は、昭和二十七年十月に上京してくると、この故中西のアトリエを借りうけて、自炊生活をはじめた。すでに数え年七十歳の老躯で、持病の結核は緩慢に進行していた。足かけ五年あまり、最晩年をここですごすのだが、この詩人の晩年には、十和田湖畔の七尺の立像と、この女に与えた詩篇とをここで制作し、老と病とをはねかえすほどの気魄をみせた。老いて若い詩精神をたぎらせ、彫刻に励む強靭な精神こそ忘れてはなるまい。」と熱をこめ書いている。

旧アトリエのあった中野3丁目11付近                      旧中西アトリエ付近

 昭和27年青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の彫刻制作の依頼があり、激しい神経痛もいくらかよくなったので引き受け、10月に岩手花巻近くの山居から帰京して、このアトリエで裸婦像制作に入ったのだ。

 同年12月に書かれた「制作現況」では、「制作そのものがどんなものかといふ事は、出来上がらないうちは、語りたくもないが、七尺の像2體になる。今は二尺ばかりのエスキスを完成し、もうそれを石膏型にとくばかりになってゐる。十月十三日に此のアトリエに来てから二ヶ月程になるわけだ。十月一ぱいは東京のジャーナリズムや訪問客に攻められて寧日なく、十一月から仕度をはじめ、十一月十日からモデルが来るやうになり、毎日午前中はストーヴを焚いてモデル研究。従って午前中は一切閉門を敢行してゐる。呉午後は翌日の仕事の仕度や、来訪客との歓談、自炊の用意や、買物の爲の外出に當て、夜は原稿書きや休息といふ事にしてゐる。」と制作の様子を書いている。

 翌年6月裸婦像原型が完成。制作で体力を消耗して体調をくずし肺結核と診断されたが、10月に十和田湖畔休屋御前浜で除幕式があり参列した。

十和田湖畔「乙女の像」  十和田湖畔にある乙女の像「十和田観光協会」

 「乙女の像」と題するブロンズ像は、ふたりの裸婦が向い合って、たがいに左手をさしのべている。制作中は白布で覆われていたという顔は、亡き智恵子夫人をイメージしたものといわれ、編集者の松下英麿は「雑話筆記」の中で、光太郎が「この裸像の顔をみてゐると、もちろんモデルにも似てゐるが、だんだん智恵子に似てきてしまった。知らず識らずに、智恵子になってくるのが自分でも不思議でならない」と話したのを書いている。

 戦後、美術評論家として「大和古寺風物誌」を書いた、亀井勝一郎(19071966)阿佐ヶ谷北界隈その1野方・沼袋界隈その1で紹介】の「高村光太郎」に、この裸婦像への理解をふかめる一文がある。

 「光太郎の彫刻作品は極めて少い。かなり以前に『黄瀛(コウエイ)』『手』『鯰』など見たが、代表作となるものは、昭和二十八年(七十一歳)、十和田湖畔に立てられた『裸婦像』であろう。高さ七尺(台座六尺)、氏の作品の中での最大な記念碑的作品であるが、私は偶然アトリエでその第一段階の制作を拝見する機会があった。そのときは高さ二尺数寸の裸像であったが、周囲をめぐりながら、氏は『夢違観音』のことを何げなく話された。左手をやや前方にあげて、掌を前方に向けて施無畏(せむい)の印をむすんでいるようにみえるが、これは『夢違観音』のポーズである。むろん仏像のもつ『不動』でなく右足をやや後にひき、或る動きを示しているが、『裸婦像』は二体つくられ、互に向き合う形で完成され、向き合うことでバランスがとれている。像の動きは節度を与えられ、不動なものとして安定する。構想のすばらしさと、その大いさからくる重量感と、更にこの像の背景に原始林と湖のあることを念頭においたとき、私は宇宙性をもった或る深い『詩魂』を感じた。‥」

 文中の夢違観音は、奈良法隆寺白鳳時代の仏像で、由来は悪夢をみても、この仏像に祈れば、吉夢に変えてくれるという信仰からだとされる。

 翌十一月、光太郎は詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を書いた。全十四行のうち後半七行を引用。

  銅とスズとの合金で出来た  
  女の裸像が二人

  影と形のやうに立ってゐる。
  いさぎよい非情の金属が青くさびて
  地上に割れてくずれるまで
  この原始林の圧力に堪へて
  立つなら幾千年でも黙って立ってろ。

 彫刻家光太郎の裸像を、詩人光太郎が厳しくみつめている。

詩人の伊藤信吉は「詩のふるさと─湖畔の乙女像」の中で「詩と彫刻の両面から、愛と追慕の思いを最終的に表現したとき、光太郎はすでに死を予感したかも知れない。ほろびるのは自分の肉体であり、残るのは愛の造型とその詩だからであろう」さらに「智恵子という女性は光太郎にとって、ある意味で永遠の伴侶であり、生のささえであり、情緒の泉だった。それだけにまた逆にいえば、柔軟な呪縛だったかもしれない。裸像に寄せた詩はその投げつけるような言葉で、呪縛や嘆息を暗示したのかも知れない」と光太郎の胸中を書いている。

桃園川緑道からみた旧アトリエ付近   桃園川緑道から望む旧中西アトリエ付近

光太郎はこのあとつづいて「倉田雲平胸像」にとりかかるが、29年5月頃から病臥するようになり、喀血をくりかえす。昭和31年4月病状あらたまり73歳で没した。主要作品には詩集「道程」「智恵子抄」「典型」がある。

旧橋場町

 高村光太郎 の住んだ旧アトリエの裏は、かつて桃園川が流れ、杉並区天沼にあった弁天池の湧水を水源とし、中野区を横断して神田川にそそいでいた。田園地帯だった周辺は宅地化されるにつれ汚れ、昭和42年にはついに暗渠化されてしまったが、昭和60年から平成4年にかけて桃園川緑道として整備された。緑道両側に赤レンガの植えこみがあり、歩道には水辺の動植物などの絵タイルがはめこまれて、雰囲気のある散歩が楽しめる。

 旧桃園川はほぼ大久保通りに沿うように神田川に合流するが、杉並区境の西田橋から合流点末広橋まで実に二十八もの橋がかかり、さまざまな意匠の欄干が、かつての面影をとどめている。

 旧アトリエ近くの竹橋から緑道に入り下流への路を辿ってみよう。鳥見橋の次、宮園橋は大久保通りにかかる。次の公園橋の先は交通ひんぱんな中野通りにかかる桃園橋となる。

 桃園川緑道が中野通りの桃園橋を望む中野通りと交差する桃園橋付近

 桃園の由来は八代将軍吉宗が命じてこの地に桃を植えさせたことによる。お成り街道から、お立場の小高い台場に入るための、お成り橋が桃園橋で、将軍が橋を渡るときには、其の都度特別の橋板に架け替えたという。橋板の保管場所が「橋場」であり、宮園橋を渡った先、ほぼいまの大久保通りから東側一帯が、橋場町と呼ばれていた。現在の中央5丁目になる。

 桃園橋から右にうねって少し行くと、橋場橋が欄干をみせ、中野総合病院の建物が現れる。その先の住宅やビルの谷間を縫うようにしてつづく緑道には、昔話の浦島太郎や桃太郎などの絵タイルがはめこまれていて、歩くのが楽しい。北畑橋を過ぎ上宮橋を渡ると、ここから旧上町になる。

                                  緑道タイル絵のひとつ桃園川緑道絵タイルのひとつ

御伊勢橋と由緒のありそうな橋、箱堰橋、上町橋、三味線橋とつづく。三味線橋はこのあたりをとおるといつも近くの家で三味線の音がしていたからだといわれる。この通りが紅葉山公園通りで、この先は旧仲町になる。

旧仲町に住んだ文学者の住いまでは、北裏橋を越し仲園橋で右折して坂道を登る。区立旧仲町小学校(平成204月統合のため廃校)の校舎が見えてくる突き当りの左側付近(中央3丁目9)に戦後第三の新人のひとり小島信夫(19152006)が、昭和25年から十年ほど住んだ。「アメリカン・スクール」で昭和29年第32回芥川賞を受賞する前で、「小銃」「吃音学院」「星」「殉教」が次々と芥川賞候補になりながら、受賞に至らない挫折の時代を過し、ついに栄冠を得た。

受賞作「アメリカン・スクール」は戦後、米軍が進駐軍とよばれた時代に、中学教師たちが「アメリカン・スクール」を見学させられる。出世の野心をもつ人間、参加者唯一の女性で英語に堪能な人間、英語はもちろん言葉を発しないと決意して望む人間などが、敗戦国民としてアメリカ文化へのコンプレックスをユーモアこめて描いた作品。選者のひとり井上靖は選評で「これは人間の劣等意識を執拗に追求した作品で、一時期の日本人を諷刺して時代的意義もある力作である」と書いている。

仲園橋から坂をあがった右側にあった小島邸仲園橋から坂をあがった中央3丁目9付近

昭和40年「抱擁家族」で第1回谷崎潤一郎賞。昭和57年「別れる理由」で日本芸術院賞、野間文芸賞をうけた。平成6年には文化功労者にえらばれた。評論家としても「私の作家評伝」など幅広く活躍した。   


 
前後するが、緑道を大久保通りの宮園橋まで戻る。大久保通りを左に入って信号のある交差点を左に折れ、ちょっと行くと、区立桃花小学校(旧桃園第三小学校・中央5丁目43)の校門前になる。校門の右側には大きく枝をのばす二本のけやきが目に入る。「千年けやき」と呼ばれているその巨木が、井上靖(19071991)の長編小説「欅の木」(昭和46年刊)に描かれている。

 この作品は作者の社会批判を思いのまま語った作品といえる。社長でありエッセイストの主人公が、新聞のコラムに滅び行くけやきについて書いたことで、公害で枯れていくけやきを憂慮する「けやき老人」の存在を知る。

                                   区立桃花小学校 校門前
桃花小学校校門前 「けやき老人」に誘われ、はじめて案内されたのが、この「千年けやき」だ。妻の光子も加わり、そのけやきを眺める場面は詳しく描かれるが、その一部を紹介する。

 「『ここでございます』/その老人の声といっしょに、くるまは停まった。なるほど小学校の校門の前である。/くるまを降りると同時に、旗一郎の眼に校門のすぐ傍にでんと居坐っている巨大な二本の木が飛び込んで来た。枝の張り方はけやきであるが、空を見上げない限りけやきの木とは思えない。一本の方がやや大きい。その大きい方は、三人ぐらいでないと抱えられないだろう。」

このあと、校舎側から眺めたり、幹に触れたりして「けやき老人」のけやきへの熱っぽい賛辞を長々ときかされる。

一説には樹齢600年といわれる欅巨木 「千年けやき」と呼ばれる巨木

「三、四百年、風雨に曝(さら)されると、木の幹もこのようになります。いろいろなものを見て来た木でございます。江戸の参覲(さんきん)交代も知っておりますし、明治維新も知っております。空襲も、終戦も知っております。たいした木でございます。あらしというあらしは、ことごとくわが身で受けとめたのでございますから、考えてみると、怖ろしいようなものでございます。それなのに、そんなことはおくびにも出さず、こうして黙って立っております。」

各地の名だたるけやきを案内されていくうちに、人間によって自然が壊され、けやきなどの樹木が次々と失われていく事実を知って、「けやき老人」の念願である「けやきを守る会」結成に加わる。そして講演会を成功させるところで作品は終る。

「欅の木」は、けやきを通して、樹木の神秘的な生命力への畏敬と、自然をかえりみない人間社会を風刺した作品といえよう。作中で心に残った文章。「幸福は求めないほうがいい。求めない眼に、求めない心に、求めない体に、求めない日日に、人間の幸福はあるようだ。」

井上靖は昭和24年「闘牛」で第22回芥川賞を受け、以後、作家として幅広く活躍。代表作に「猟銃」「氷壁」など。歴史小説「風林火山」「淀どの日記」「天平の甍」などがあり、数多くの賞を受けている。                          

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