阿佐ヶ谷北界隈その1


旧桃園町(1)

 旧桃園町は、現在中野三丁目となっている地域で、桃園の名が残るのは桃園川緑道や桃園地域センター、小学校名などだが、民間ではよく使われ、桃園会館という古い建物もある。町会名も桃園町会を称している。

古い桃園会館の建物  桃園会館の古い建物

 桃園の由来は、「‥‥時が流れ、享保の年になると時の将軍八代吉宗は鷹狩りのためしばしば中野の地を訪れましたが、この郷右衛門(注・この一帯の地主)の地には小川が流れ、小高い台地もあり、休息の場所として大変格好のところでした。そこで吉宗はある日『この地に桃の木を植えたら、さぞよい眺めであろう』と思いたち、土岐美濃守に命じて眺めのよいところに足場をもうけ、そのまわりや畑のあぜに紅桃五十株と白桃を植えさせました。享保二十年のことといわれています」(「なかのものがたり」中野区教育委員会)

江戸名所図会(天保5年・7年刊)には「享保の頃此の辺の田畝に悉く桃樹を栽えしめ給ひ、その頃台命によりてこの地を桃園と呼ばせ給ひしといへり。今も弥生の頃紅白色をまじへて一時の奇観たり。」とある。 桃園通りの突き当り

        桃園通りの突き当り(線路を挟んで区役所が望める)     
JR中野駅南口右手の中野通りを横断し、線路沿いの坂をあがって始めての角を左折する通りが、昭和4年駅移転前の駅前通りであった桃園通りで、通りの北端にあたる。

 桃園通りを南に進み、「TSUTAYA」の先、左手の飲食店街の一角(中野3丁目34)に、かつて旅館「生稲」があったとみられる。平林たい子(19051972野方沼袋界隈その3で紹介)が夫と別居した昭和10年から下宿したところで、旅館というより下宿屋といった方がよいかもしれない。

終生の友であった円地文子野方沼袋界隈その3で紹介】の「平林たい子さんを悼む」という文に「中野駅のすぐ前の坂の途中に『生稲(いくいね)』という下宿があって、そこに平林さんが一人で生活していることが分った。小堀さんと離婚していたわけではなく、まあ言って見れば別居結婚をしていた期間だったらしい。」とあり、平林たい子全集3巻の解説では、詳しく「中野駅前の大通りから少し坂になっている横町の左側にある旅館「生稲」へ殆ど毎日のように通って行った。平林たい子の部屋は、二階の廊下の横にあった。たしか二間になっていたと思うが、間取りなど覚えていない」とある

レンガ坂通り レンガ坂通り(この左奥あたりに「生稲」はあったり思われる)

「生稲」への路は、中野通りのガードから二つ目龍生堂の角を入っても行ける。レンガさかと呼ばれる坂道の中ほどの左側にあったと思われるが、このあたりは店の変転も激しく所在は分らない。

 「毎日のように私は生稲へ行ったから、平林さんとすれば随分うんざりしたこともあったであろうが、彼女は一度も厭な顔を見せたことがなかった。いつも死ぬ直前まで離さなかった明るい笑顔で私を迎えてくれて、たまに御飯どきになると、下宿の食事をとって一緒に食べた」と回想している。

平林たい子の自伝的小説「砂漠の花」には、夫と別居したいきさつが書かれている。

 「ちょうど年の暮れ近くで、『新潮』にたのまれた小説を書こうとしていた。しかし、家には夫の属している大衆政党の支部の訪問者が多いので、中野駅前の『生稲』という宿屋に行って、二日ほど、上げ膳、据え膳で朝から晩まで書いた。炊事の義務から解放されるということは、私には天国に行ったようなものだった。家で、家事のまにまに、立ったりすわったりして書くのとでは、小説の出来栄えがぜんぜんちがう」

 「とうとうある日、私は長いあいだ心の中にあたためていた自分の考えを、夫に打ち明けた。『あなた、一生のお願いです。私と別居してください。私は一人になって、いま一度自分の力を力一ぱい試みてみたい。あなたには気の毒ですけれど、当分、別居して、アパート生活でもしてください。私は「生稲」に行って、しばらく仕事をしてみたいと思うんです』
 夫が突然の話に困り果てているのにかまわず、「生稲」に引っ越してしまう。

桃園通りの路地                 飲食街のある桃園通りの路地

 「移転」という随筆にはその時の様子が描かれている。「私たちは、赤い布片でつけておいた印にしたがって、私の下宿の前に私の荷物をおろした。トラックの隙間から落ちた物尺を腰にさして、夫はトラックと私の室との間を往復していたが、お櫃だの塵取だのを土の上においたまま、未だ蝿帳などののぞいている半分の荷物のトラックにのって『じゃ俺は行くから』と言って行ってしまった。それが、一種の別れの瞬間だった。」

そして執筆に専念するのだが、事態は変る。昭和12年、人民戦線事件に夫が関わっていると野方署に参考召喚され留置された。その状況は「砂漠の花」に詳しく描かれているが、留置中に体調を崩し腹膜炎に肋膜炎を併発と診断されようやく放免された。そして長い闘病生活となる苦難の時代がはじまったのだが、「生稲」との関わりはつづく。

女中だった千ちゃんは「生稲」を出て派出婦になり、時に差し入れにもきてくれ、放免された後の看病を献身的にみてくれた。「生稲」の女将は特高の取り調べに偽証さえし、かばってくれた。

不治の病といわれた結核で入退院を繰り返しながら、どん底の病状を生への激しいエネルギーで生きぬく。昭和2年「施療室にて」でプロレタリア作家として認められ、以後弾圧への不屈の精神と、極限まで追詰められた体験に根ざす反逆的作品「こういう女」(昭和21年)「私は生きる」(昭和22年)など、体当たりの文学と呼ばれる作品を次々と書き、昭和を代表する女流作家のひとりとなった。「砂漠の花」は若き日から夫の裏切りまでの半生を描いた、まさに体当たりの自伝である。没後昭和48年第28回芸術院恩賜賞を受けた。同年、平林たい子文学賞が創設され、第1回受賞者は「この世に招かれてきた客」の耕冶人野方沼袋界隈その2で紹介】だった。

大谷書店付近大谷書店付近

 小説、評論、翻訳と幅広く活躍している丸谷才一(1925〜 )に「中野桃園町」(低空飛行収録)という随筆がある。

 「今は中野区中野三丁目だらうか。味気ない地名になつたけれど、以前は中野区桃園町であつた。わたしは英文科の学生のころから結婚するときまで、かなり長いあひだこの桃園町に下宿してゐたのである。もつとも、桃の林なんかない、ただ家並がつづいてゐるだけの、ごくありふれた東京の町である」

 丸谷は昭和22年頃から昭和25年頃まで旧桃園町に住んでいた。

 つづいて、中野駅南口と北口の本屋でよく出会う和服姿の男性の話を書いている。「大声で、しかも歯切れのいい口調で、古書、新書、和書、洋書、あらゆる種類の本を論じてゐる。論じて倦むことがない」

 そのひととは文芸評論家の瀬沼茂樹(1904〜1988)で、学生時代桃丘小学校モニュメントから伊藤整(1905〜1969)【久我山界隈その1で紹介】と文学仲間になり、以来終生の友となる。谷川徹三の知遇を得て文芸評論の道に入り、戦後「新日本文学」に拠って近代日本文学の幅広い分野で活躍した。

           桃丘小学校のモニュメント

 瀬沼が昭和12年から住んだのは、線路沿いの道を、桃園通りへ曲らずまっすぐ行き、桃丘小学校(平成20年4月統合のため閉校し現在桃丘保育園となっている)の建物の先、杉並区境に近い中野3丁目44の住宅街だ。

 「中野桃園町」のつづき「そのうち、どこかの店で紹介されて、この元気のいい中年男がすなはち瀬沼さんであると知つたし、やがてお宅にうかがふやうになつた。何しろ同じ町内だし、こちらは閑で困つてゐる身だから、さぞかし迷惑をおかけしたのではなかろうか」

 「温雅で端正な知識人が住んで、万巻の書に埋れながら、よく読み、よく書き、そのことに疲れると、ぶらぶら散策して、その散歩の途中にもむやみに本を買い込んでゐたことを、ここに記しておきたいと思ふ」と風貌を描いている。

 本好きの瀬沼が「私の思い出の本屋」で「私は中野の桃園に住まって三十年以上になる。私の行きつけの本屋は大谷書店である。私は毎日散歩に出ては、ここでその日の新刊を眺めるのが常である。けれども私は大谷書店のお得意様ではない。老主人にも若主人にも友人のように交際しているし、掛け買いもする。懐中の乏しい時は、大谷書店から買うという結果になるが、上得意とはいえない。(昭和41年)」と書いている。大谷書店は、桃園通り中野三郵便局(以前は桃園郵便局と言っていたようである)の左隣で、文中の若主人もなくなり三代目。店を地下に移している。

 伊藤整の自伝的長編小説「鳴海仙吉」は戦後の実験的な小説だが、作中の友人「仙沼刺戟」は、瀬沼をもじってつけたのだといわれる。「私の友人であるあの名声天下にあまねき博学なる科学的民主主義評論家千沼刺戟」と書かれ、仙吉と対極する存在として戯画的に描かれる。

 伊藤整が昭和27年から「群像」に連載した「日本文壇史」は昭和44年、死去により中絶したが、瀬沼は昭和46年、あとを受け継ぎ六巻をもって完結させ全二十四巻とした。昭和54年「日本文壇史」全六巻で読売文学賞を受けた。 
  囲桃園公園囲桃園公園

 阿川弘之(1920  )鷺宮界隈その1で紹介「食昧風々録」(平成13年刊)には、かつて桃園通りにあった店が登場する。

 「中野駅の南口を出て、線路沿いの坂を上り、ごちゃごちゃした狭い道、少し左の方へたどって行くと、薄汚い暖簾をかかげた小さな中華料理店「萬華楼(ばんかろう)」があった。昭和十二年の夏、支那事変が起るまで、中野高円寺のあたりには、中華民国からの留学生がたくさん住んでいた。その人たちの口と財布に合う一膳飯屋、つまり味を日本人向けに崩していない、安くて旨い簡易中華食堂があちこちにあり、やがてお客さん激減で店をしめてしまうのだが、「萬華楼」はそれの、僅かに残った一軒だったろうと思う……。住まいが荻窪の私は本郷への往き帰り、中央線沿線の友人連中と誘い合せて、三日にあげず此の店へ通った。すぐ近くに、法学部蝋山政道教授(正確には元教授)の邸があった。……中略::私どもは、河合栄治郎事件に抗議辞職した蝋山教授にシンパシーを抱いていて、先生の名前政道のもじりで此処の通りを蝋山街道と称した。」とある。

 「萬華楼の菜単には確か木須肉(正式には木犀肉)と書いてあって、我々『ムースーロウ』と発音していた。十七番木須肉は私にとってすこぶる気に入りのいつ出なくなるか心配な一と品だったこと、言うまでない」と書いたのは、昭和十五六年頃の戦争勃発まえだったので、食糧事情が悪くなりつつあり、品不足が心配されるからだった。

 お気に入りの「木須肉」とは卵、豚肉、葱、生姜、木耳などの炒め料理で、木犀の花を散らばらせたようなところから、その名がつけられた。その作り方まで披露している。

萬華楼のあった中野3丁目27付近             萬華楼のあった中野3丁目27付近

 「さて、具体的作り方だが、支那鍋の中の油がほどほどに熱くなったところへ、といた卵を流し入れて、さッと掻きまぜ、手早く別の容器に取り出して置く。味つけは塩少量のみ。そのあとすぐ、もう一つの支那鍋で熱した油の中へ、大蒜、生姜、葱、豚肉、木耳の順に抛り込んで、酒と醤油と塩胡椒で味をととのえると、それ自体一つの惣菜として使えそうな豚肉の葱炒めが出来上る。これに、先の掻きまぜ卵の未だあつあつを合せて再度炒め上げたのが、長年の間に変化した当家流木犀肉、難しいのは二度の油炒めで卵のきれいな色を薄黒くよごして了わないこと、じくじくの部分を少しでも多く残して置くことの二つであろう」と調理の勘どころを書いている。「卵料理さまざま」と題されたその章は卵料理の薀蓄が傾けられる。

 「萬華楼」は、旧桃園町14付近(現中野3丁目27)に戦後まであったと思われる。桃園通りを南に進み、中屋米店の角を右折、すこし先の二俣手前左側で、現在はコンビニエンス・ストアになっている。

 蝋山街道と呼ばれた蝋山宅は、その二俣を左にとり、囲桃園公園前のT字路を左にしばらく行く住宅街にある。

 ちなみに山政道(1895〜1980)は、政治学者、行政学者で、昭和29年から6年間お茶の水女子大学学長をつとめた。

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