荻窪駅南界隈その2


 与謝野寛(鉄幹)・晶子旧居跡碑        与謝野鉄幹・晶子旧居跡の碑 環状8号道路、桃井二小南の横断道路からまっすぐ住宅街への道を行く。二つ目の十字路を左にとり、南方向へ50メートルほど行くと、右側に南荻窪中央公園(南荻窪4丁目3)がある。中央公園とは云っても一角に「与謝野寛(号鉄幹)晶子旧居跡」の案内板がなければ、見過ごしてしまいそうな公園だ。明治時代後期に歌誌「明星」によって浪漫主義詩歌文学旋風をおこした新詩社を主宰した与謝野鉄幹(1873-1935)その妻与謝野晶(1878-1942)が、関東大震災後、英文学者の戸川秋骨(18711939)に荻窪に土地を借りることになったから一緒に借りないかと誘われ、晩年の昭和2年から終焉まで住んだところ。当時は井荻村下荻窪三七一番地。


     やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 晶子の処女歌集「みだれ髪」にある一首。大阪堺市に育った晶子は、来阪した鉄幹と出会い、新詩社の歌誌「明星」に次々と情熱的な作品を発表し脚光を浴びる。実生活でも家を出て、前妻と別れた鉄幹と結婚した。官能的で奔放な情感を素直に歌い、「明星派」として一世を風靡し近代短歌に強い影響を与えた。世に知られる「君死にたまふことなかれ」は、出征中の弟にあてた、否戰の思いを歌ったものだ。

ああ、弟よ、君を泣く/君死にたまふことなかれ。/末に生まれし君なれば/親のなさけは勝りしも、/親は刃(やいば)をにぎらせて/人を殺せと教へしや、/人を殺して死ねよとて/二四までを育てしや。

この一連からはじまる五連の詩は、明冶37年「明星」に発表された。日露戦争の熱狂的な雰囲気の中で、戦争の非情さを直情をもって歌うのは勇気のいることだった。

                                  南荻窪中央公園 南荻窪中央公園

鉄幹の主宰する「明星」は、明冶30年代の詩歌壇を主導して、高村光太郎、石川啄木、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋らの歌人を世に送り出した。

知られた作品「われ男()の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子」がある。愛唱されている「人を恋ふる歌」も鉄幹の作だ。

残された写真でみると広い庭木の茂る奥に展望台つき洋館二階建てがみえる。子息の与謝野秀(次男)の妻与謝野道子の著書「どっきり花嫁の記―はは与謝野晶子―」に、はじめて荻窪の与謝野家を訪れた時の様子がある。

    

「与謝野の屋敷は荻窪の須田という地主から借りた五百坪(約一六五○平方メートル)ほどの土地の上に、西洋風の五十坪(約一六五平方メートル)の母屋と冬柏亭(とうはくてい)という日本間と二階建ての洋館が外廊下でつながっているものでした。門というか、外からの入り口はなんの防備もなく、泥棒でさえ、はいってもよろしいというようなとびらのない門があって、そこから十メートル余り歩くと、その細道は右にほぼ七十度に曲がるのです。その曲りかどは男性的な竹林でした。竹林の左隣は戸川エマ氏のお里方の戸川秋骨の屋敷でした。竹林を左にみて、六、七メートル歩くと与謝野宅の玄関に到着します。門から玄関まで右手には低い竹垣があり、二百坪(約六六○平方メートル)ほどの庭の中に雑然と各種の木と草が思い思いに生え茂っていました。落葉も気の向いたとき、暇なおりにだれかがなんとなしに、掃き寄せたといった感じでした。」

道路からみた南荻窪公園通りからみた南荻窪中央南公園(向って左側)

与謝野宅の裏庭には七面鳥、あひる、にわとり、などが放し飼いにされていたという。洋館は遥青書屋(ようせいしょおく)日本間の方は采花荘(さいかそう)と呼ばれていた。畑地の周囲を見おろす広い屋敷の様子が目に浮かぶ。庭木の好きな鉄幹が、贈られたのを次々と植えたので、庭は樹木でいっぱいになったといわれる。     
 与謝野寛(鉄幹)は明治38年に鉄幹の号を廃しているが、この文ではすべて鉄幹と統一する。 その頃の与謝野邸の様子を、長男光の妻迪子も「想い出わが青春の与謝野晶子」で書いている。

 「(大正十五年)十一月、上京した私は光に迎えられ、荻窪の新しい与謝野家を訪れた。クリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色に鮮やかな二階立ての大きな洋館。うらやましいほどひろびろと廊下がとられ、応接間、書斎、客間用のベランダと義父母の部屋。二階には日本座敷が十畳と長五畳、階上階下に子供達がめいめい、それぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていた。どこも立派で楽しそうだった。門から玄関まで砂利道がカーブを作ってながく続いている。庭の芝生はまだ植えたて、幼い木々があちらこちらに植えられて、落葉樹が多いせいか明るくひろびろした庭に思えた。」

  当時の景色が目に浮かぶ。この時まだ鉄幹・晶子夫妻は居住せず子供たちが住んでいた。

 その頃の庭を歌った一首がある。

 わが庭に友あつまりて木をうゑぬ空のみを見て歎くなかれと

 昭和2年、寛の主宰する「明星」が行詰り休刊した頃の、気落ちした鉄幹を励ます思いがこもった一作に思える。晶子はその庭を愛し、花を愛した。昭和4年に書かれた「雑木の花」は自然を愛する一文だ。

 「起きて硝子窓(がらすまど)を開けると、昨夜の雨が止んで、名残の雪に赤い鞠のような色の太陽が透いて見える。二三日前から俄かに加わった暖かさと、一夜の雨とで、庭の枯芝に青味が注し初めた。早咲の紅梅は散ったが、遅咲の紅梅が咲いている。連翹(れんぎょう)、木蓮、木瓜(ぼけ)、椿、三椏子(みつまた)、どの木にも今朝は、春の目が、唇が、頬が、襟脚が光って見える。紅梅は珊瑚の小さい珠を鏤めた春の薄い外套─支那服の─とも眺めらる。/私は食前に庭に下りて、更に其等の花の木に挨拶をして廻った。柳はどうかと思って近寄ると、誰れよりも春に敏感だと云う様子をして、きゃしゃな枝一ぱいに鶯茶の新芽の一分ほどなのを著けている。私は子供達の作っている畑をも覗いて見た。狭い所に色色の花の芽が出ている。久しく雨が降らないのでいじけていた豌豆が三寸程に肩を揃えている。私には纔(わず)か二三日の間に自然の急転したことが驚かれる。─以下略」

 晶子の生涯を一口で云うのは難しいが、生きるすべてを情熱的に生きたといってよいだろう。23歳、同じ「明星」の山川登美子と、ひたむきに鉄幹を争って愛を実らせた晶子だが、のちのちまで登美子や前妻滝野に心を残す鉄幹への葛藤に苦しみながらも、強く生き十一人の子を育てあげる。

南荻窪中央公園道案内         南荻窪中央公園への道案内

明治35年上京した石川啄木(1886-1912)は鉄幹に認められ「明星」に詩を発表した。以後鉄幹・晶子のもとに出入するようになり、晶子を姉のように慕ったという。明治38年の処女詩集「あこがれ」が世に出るとき、序文を寄せたのは鉄幹である。啄木は27歳で夭折したが、終生鉄幹を師と仰いだ。

上京の年、少年啄木は啄木日記のなかで「晶子女史は凡人がとても近づくことができぬような気品の神韻がある。この日産後ようやく十日、顔色蒼白にしていっそうその感を深くした」と記している。多少の誇張はあるが、当時の晶子の印象をよく表している。啄木の歌集「一握の砂」はのち明治43年に刊行された。冒頭の一首「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」は世に知られている。

明治44年鉄幹は新詩社の「明星」が不振となり、心機一転、西欧文学研究のため渡欧を考える。だが旅費のあてはない。その資金調達で晶子はなりふり構わず奔走した。見送りに行った神戸で詠んだ歌は悲痛な心がこもっている。

   《男行くわれ捨ててゆく巴里へゆく悲しむ如くかなしまぬ如く

 次の年の五月、矢も楯もたまらず七人の子供たちを残し、鉄幹を追って渡欧した。フランスで詠んだ作品もまた愛憎の思いがこもっている。

ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ)

 だが国に残した子供たちのことを思い返し、半年ほどで帰国するのだ。

大正10年、西村伊作(1884-1967)を中心に、男女共学、自由で斬新な教育を実践する文化学院の創設に、鉄幹と共にかかわり、講師陣には山田耕作、吉野作三、有島武郎、菊池寛、北原白秋らが当り、多彩な文化人を輩出した。

 隣りに住んだ戸川秋骨の娘、戸川エマはかつて新聞の「人生案内」の回答者で知られるが、文化学院の卒業生であり、晶子の授業ぶりを同出身、田上千鶴子との対談-与謝野寛晶子-(文化学院時代)「回想・教壇上の文学者」で、

 「先生は授業の始まる前に、黒板にびっしり歌をお書きになって、私たちはそれをせっせと写しました。教科書は使われなかったのです。それで、大へん熱っぽく授業されて、私たちの間をしきりに歩き回られる。片方の手で握りこぶしを作って、もう片方の掌をバシンバシン叩きながら、『ぅわかりましたかっ、ぅわかりましたかっ』と顔を紅潮させておっしゃるのです」と語っている。

 鉄幹は昭和5年に文化学院を辞するが、晶子はなくなる2年前まで古典文学の講師をつとめた。

晶子は晩年の昭和13年、この地で「新新訳源氏物語」六巻に心血をそそぎ完成させた。大正12年関東大震災で現代語訳「源氏物語」訳稿数千枚を焼失してしまって以来念願の書であった。

 歌人、古典文学者、教育者としてまた社会評論家としても活躍し、母性保護を主張する、女性運動の先駆者である平塚らいてう(1886-1971)と、すべての女性は経済的に独立する女権主義を提唱する晶子との激しい論争は、女性史上注目すべきものだった。

昭和10年57歳の時、夫・鉄幹を失った晶子は、病み勝ちになり夫への挽歌ともいえる一連の歌を書きつづけた。62歳脳溢血で倒れ、昭和17年病状悪化し64歳で死去した。のち遺稿歌集「白桜集」が刊行された。

桃井2小内の校歌碑 桃井2小学校内の歌碑

近藤富枝(荻窪駅南界隈その4で紹介)に近い杉並区立桃井第二小学校(荻窪5-10)の校歌は、晶子が作詞したもので、校内にその歌碑がある。当初の依頼は鉄幹にだったが、逝去後晶子が引き受けたものという。

南荻窪中央公園旧居跡の案内板前に立ち、日本文学史上燦然と輝く文学者与謝野鉄幹・晶子終焉の地に、いつの日か記念館の創られることを願うものである。
  そのステップとして、地元の商店会、川南共栄会が、文化と緑の街づくりの一環として、平成19年11月に、公園入口にモニュメントを建立した。晶子の文「歌はどうして作る/じっと観/じっと愛し/じっと抱きしめつつ作る/何を/真実を」 が刻まれている。 公園の名称を「与謝野公園」とする署名運動も起きている。

                              平成19年に建てられた晶子の碑公園内の晶子の文碑                           
与謝野寛(鉄幹)・晶子旧居跡案内板のある南荻窪中央公園通りの南はすぐ環状八号道路に交差する路につきあたる。その路を右に行きすぐを南に折れるあたり(南荻窪119)に、作家でドイツ文学者の柴田翔(1935- )が住む。

昭和39「されどわれらが日々─」で第51回芥川賞を受賞。要約するのはむずかしい。婚約者のある主人公が学生時代、反安保闘争など学生運動盛んな時代に生きた友人たちの生きるとはなにか苦悩する姿を、手紙や手記などの手法で描く。遠縁で幼馴染みという間柄で婚約した婚約者は、やがて愛とはなにかと思い詰めてついには自殺に至る。悔恨の多い青春の群像を描いた感動の書だ。
  
昭和50年に書かれた「ノンちゃんの冒険」は、石井桃子「ノンちゃん雲にのる」をイメージに、小妖精のような娘の天衣無縫な生き方が描かれ、大人のメルヘンといえる。著書に「贈る言葉」「鳥の影」「立ち盡す明日」など、翻訳書にゲーテ「ファウスト」「親和力」がある。

やや離れるが、南への宇曲する路をしばらく行き、環状八号道路に出るあたり(南荻窪17)に、歌人の前田夕暮(1883-1951)が住んだ。

前田夕暮宅前 特徴のある三角屋根の前田邸  

与謝野鉄幹・晶子とほぼ同時代の歌人であるが、尾上柴舟に師事し、色彩感のある自然主義的な作風で、静謐ながら力強い作品を書いた。第一歌集「収穫」から第八歌集「耕土」まで、自由律時代をふくめ自然への敬虔な思いを詠んだみずみずしく清らかな作品が多い。

この地には昭和749歳の時、五年前に肺結核で臥すようになった長女妙子の病気療養のために移ってきた。その頃はみずからも白内障で手術を受けたり糖尿病に悩んでいた。

善福寺川の南に位置し、いまも川南とよばれているが、当時は田園や葦原が川岸近く拡がり、洋風の二階屋はそれらの田園が見晴らせる格好の場所であったようだ。「東北隅に二、三十メートルの杉が並木を作り、東隣は古い地主の屋敷で、地境には竹林と雑木林が茂っている木深い地所だった」(「金の向日葵─前田夕暮の生涯─」村岡嘉子著)とあり、その地境に梢をのばしていた二本の青樫を譲り受け、庭に移植し「青樫草舎」と名付けた。「杉木立と青樫を背景にした、私の家の赤褐色の急傾斜の屋根と、それによい階調をもつた屋根裏の三角形の薄い黄壁とが、ほどよい翳と光線とによってかもし出されてゐる」と書き、サナトリウムとして造られた部屋で療養する妙子の快癒を願ったが、その甲斐なく三年後の秋に没した。悲嘆の極みにあった夕暮の歌「今はしづかに、すべてが終つた。額髪眠れ眠れとわが撫でてやる」はいかにも切ない。夕暮の夫人狭山信乃も歌人であり、妙子を思う歌を多く発表していたが、まもなく作品は見られなくなった。

                             前田夕暮邸玄関 前田夕暮邸玄関

昭和20年奥秩父に疎開するが、敗戦となり帰京。「詩歌」を主宰発行するが、昭和26年胸部疾患で病状悪化し69歳で死去した。

遺歌集の一首「雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は」は死後、床の下から発見されたものという。

夕暮没後、子供の時から短歌に親しんでいた長男の前田透(1914-1984)は、「詩歌」を継承し歌人への道を歩んだ。歌人、短歌評論家として知られ、昭和48年より数回にわたり歌会始選者となる。歌集「冬すでに過ぐ」で昭和56年第15回「迢空賞」を受けた。主な歌集に「漂流の季節」評論集に「評伝前田夕暮」がある。夕暮の菜の花忌に詠んだ「小松菜の花のさかりにみまかりし父の四月はあかるく哀し」は印象ぶかい。                             透の長男で、夕暮にとって初孫の前田宏氏が現在居住しているが、建物は秩父の持ち山から切り出した材木を使って建てられたという。当時の姿をとどめるのは、急勾配の三角屋根や壁面のあたりと玄関、それに庭にそびえるヒマラヤ杉や泰山木という。

井出則雄・尾崎喜八

詩人、井手則(1916- 1986)柴田翔宅近く(南荻窪137)付近に住んだ。 昭和27年、長谷川龍生、野間宏らと、戦後詩人を結集した詩誌「列島」を創刊。激動の時代をとらえ表現する先鋭詩人たちの作品は、現代詩のステップとして評価されている。しかし井手は詩人よりも彫刻家、美術評論家として知られ昭和47年、前衛美術会を結成。日本アンデパンダン展に参加するなど、革新的な活動をすすめ、美術教育に関する著書も多い。昭和59年からは鉄彫刻をはじめる。昭和50年第1詩集「葦を焚く夜」を出版。以後「黄昏の皮膚」「終らないもの」がある。

昭和61年福島県富岡での不慮の死が惜しまれる。遺著となった「オリンポスの神話」はオリンポス十二神の物語をやさしく書いた楽しい本だ。

信州美しの搭信州美しヶ原高原 美しの搭美ヶ原高原写真館より転載

ワンダーフォーゲルが盛んな昭和30年代の頃、筆者は山の仲間と信州美ヶ原高原に登った。広大な岩盤台地の中央にそびえる「美しの塔」には「のぼりついて不意に開けた眼前の風景に/しばらくは世界の天井が抜けたかと思う……」に始まる尾崎喜八の詩「美ヶ原熔岩台地」が刻まれていて、感動したのを思い起す。散文集「山の絵本」がそれからの愛読書となった。
 山岳詩人尾崎喜八(1892-1973)は、前田宅から環状八号道路を戻り、川南交差点を左に折れひとつ目の角を入ったあたり(南荻窪117)に、昭和6年から善福寺公園近くに移る昭和11年まで住んだ。

   向って右側の先が、尾崎喜八宅のあった処尾崎喜八旧宅跡 

自筆の略年譜によると「家のまわりに樹木も多く、すこし出歩けば農家も畠も田圃もあった。仕事のほかに新しくはじめたい事がぞくぞくと現れた。それを、こんな事の好きな妻に手伝わせてみんなした、山から採ってきた花の栽培、付近の自然観察や昆虫と植物の標本作り、一日三回の気象観測と雲の撮影……九段の小学校へ通っている長女の栄子も母親を見様見真似に手を出した。家をからっぽにして散歩したり、日帰りの山登りを試みたり、妻も子供ものびのびとした生活を楽しんだ。以下略」山や高原への旅も頻繁にした。詩集「旅と滞在」そして「山の絵本」はこの地で執筆されたものだ。

 長女栄子さんは鎌倉に在住されているが、ご高齢ながら喜八を慕う人たちが集まる命日の蝋梅忌や、長野県富士見での碑前祭の集りなどに出られ、尾崎文学を後世に伝えるために活躍されている。南荻窪(旧荻窪1丁目)の頃を懐かしみ、いまはない尾崎宅の筋向かいに在住する塩田栄子さんとは文通されていらっしゃるという。
 塩田動物病院の当年
89歳の栄子さんにその頃のことをうかがった。(平成20年現在)
 「尾崎家の栄子さんとはよくダブル栄子と呼ばれたりしました。通っていた立教高等女学校
(現立教女学院)から下校すると尾崎宅に入りびたりでしたが、七つ年下の栄子さんはフランス語の勉強に忙しく、むしろ夫人の実子小母さまから、色々と話を聞くのが楽しみでした。子供だからとよい加減にあしらうことはなく、真剣に人間の道、女の考え方を話してくださり、生きる支えになっています。また、年とった母からは教えられなかったサラダやシチュウ、手際の美しい料理を教えてくださり、今では宝物となっています。喜八は庭のある二階家の二階で執筆していて、友達の詩人高村光太郎からもらったというオルガンを時には弾いていました。いつもやさしく、きちんとした人で、山行きから帰られた旅の話もかぎりなく楽しく胸をとどろかせたものです。小母さまが善福寺公園近くの家に引っ越すとおっしゃられた時には思わず泣いてしまいました。しかしそのお宅に移られてからは、何度も泊まりに行ったりしました。やさしい小父さま、小母さまは生涯尊敬するお方です」と目をうるませた。
 塩田栄子さんはいまや詩人尾崎喜八を知る数少ないひとりなのである。
                       

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