荻窪駅南界隈その2


 公園先の大田黒公園南の交差点を左にとり、公園裏口からカーブして進み、十字路ひとつさきを左に坂をくだったあたり、荻窪3丁目14付近に、俳人角川源義(19171975)の旧宅が残っている。昭和20年角川書店を創設し、昭和24年には角川文庫を刊行した出版人であるが、俳人としても現代俳句に残した業績は大きい。

角川源義旧宅角川源義旧宅

 若き日に「古代研究」を著した折口信夫に師事し国文学を学ぶ。師に影響され歌を作った時期もあったが、出版界に入って以後、句作の道に入り、昭和31年第1句集「ロダンの首」を出版、昭和33年俳誌「河」を創刊主宰した。同47年の、愛娘の死を悼む作品をまとめた第4句集「冬の虹」には哀切きわまりない句が多く胸をうつ。その一句「墓洗ふ汝のとなりは父の座ぞ」。昭和5010月肝臓ガンで死去、58歳だった。11月第5句集「西行の日」が刊行され、第27回読売文学賞を受賞した。代表句に「ロダンの首泰山木は花得たり」がある。      

角川源義「河」発行所の看板                        「河」発行所のプレート

 小平霊園の墓所には「花あれば西行の日とおもふべし」の句碑がある。遺された旧宅は「河」旧発行所でもあり、「残雪や狩くら神の泉鳴る」の句碑があるといわれる。
 その旧角川邸は、遺族から寄贈された杉並区が、平成21年5月に角川庭園・幻戯山房「すぎなみ詩歌館」として開園した。
建物内も利用できるよう詩歌室(2室)茶室の貸室がある。開園時館は午前9時〜午後5時。休園日は毎週水曜日、年末年始。建物は平成21年11月、国の登録有形文化財に登録された。

 西郊ロッヂングの角に戻り、さらに東方向に150メートルほど行くと、左手に荻窪体育館が見えてくる。その前のなだらかな起伏のある公園が、平成18年に開園した「読書の森公園」(荻窪3丁目39)。約二千平方米の敷地には、池、東屋を中心にいくつかのベンチがあり、杉並区ゆかりの井伏鱒二、北原白秋、谷川俊太郎、石井桃子といった詩人、作家のモニュメントが展示されている。園入口附近の井伏鱒二「荻窪風土記」のモニュメントには、同書より「荻窪八丁通り」「荻窪(七賢人)」の一部が刻まれている。

芝生に散在するいくつかの陶板モニュメントのひとつには、菜の花の絵(絵・瀬川康男)に谷川俊太郎の詩、「ことばあそびうた」が組み合わされている。「ののはな/はなののののはな/はなのななあに/なずななのはな/なもないのばな」言葉遊びの面白さがあふれた世界だ。ほかに石井桃子「ちいさなねこ」北原白秋訳「まざあ・ぐうすの歌」の陶板も童心を誘う。園内には世界の原水爆禁止運動の発祥地となった公民館(現荻窪体育館)にちなみ、アンネ・フランクのバラのモニュメントもある。

読書の森公園読書の森公園 

 となりの区立中央図書館(荻窪3丁目40)にも立寄ってみよう。

 区立図書館として昭和25年に開館し、さらに昭和57年には区政施行60周年記念施設として設立された区立7図書館のうち要の図書館として開館し、蔵書数44万余冊を有している。二階にある「杉並資料室」には、貴重な阿佐ヶ谷文士村資料など文学図書初版本、雑誌、写真など300点が所蔵され、二階の展示コーナーでは、井伏鱒二「徴用中のこと」の原稿が展示され、阿佐ヶ谷文士といわれた作家たちの初版本が陳列されている。(平成194月現在)

 二階廊下に飾られている、詩人谷川俊太郎の詩額「かっぱ」「いなくなる」は、思わず楽しくなる、見過ごせないポイントだ。

                                     忍川橋からみた善福寺川

忍川橋からみた善福寺川 荻窪電話局前の交差点に戻り左折し、5分ほどなだらかな坂をくだると、やがて善福寺川の忍川橋(おしかわばし)が見えてくる。その手前の十字路は右に行くと区立桃井第二小学校の裏門となるが、左に入ったあたり(荻窪4丁目9)にノンフィクション作家の近藤富枝(1922〜 )が住む。

 「本郷菊富士ホテル」「田端文士村」「馬込文学地図」など、多くの資料ときめ細かい取材によって書かれた作品は、文壇側面史として高い評価を受けている。また、夭逝の作家、矢田津世子を描いた「花蔭の人―矢田津世子の生涯」や画家竹久夢二の生涯を描いた「待てど暮せど来ぬひとをー小説竹久夢二」などの伝記作品は魅力的だ。ご高齢ながら地域での活動もなされ、平成18年はシニアのための「杉の樹カレッジ」で「与謝野晶子を語る」、井草地域センターで「田端文士村について」の講演をされた。

 荻窪について「この町に住みついてもう二十年になる。それは家の背後に川が流れていることがうれしく、家の狭いことも機能的でないことも目を瞑ってきたのである。─中略─/駅に近いのが何よりで、日常の買物も楽であり、美味しいことで定評のある鮨屋さんが歩いて三分の場所にある。これ以上よい住居はあなたにとってないと、娘はいう。/駅から我が家への道の途中はささやかな商店街であるが、ほとんどの店が顔なじみである。わたしは食料はもちろん、きものでも服でも食器でもなるべく地元で買う方針である。おかげでにわか雨で困っているとマーケットのママが声をかけて傘を貸してくれたり、荷物で悩んでいると鮨屋のダンナが自転車で運んでくれたりするのだ。」(夫と妻の元気な老い仕度)と、地元びいきを書いている。

 「荷風を愛し、ふるさとの隅田川を愛しているわたしの、川のそばに住みたいという生涯の願いから」(東京の街と文学者)善福寺川を望むこの地に移ってきたのである。近くの川岸には七分身をのりだして、たわわに花をつける桜の大木もあり、桜の時節には川周辺が華やぐ。

  蓮華寺参門蓮華寺参門付近 付近

 「花の頃小嵐が吹くと、我が家の窓下を流れる善福寺川が花びら川に変わる。これもまた絶倫の美しさである。眺めているうちに心もからだも花びらとともに水に吸いこまれていくような気がする。一年に一度のこの眺めのために、私はこの川沿いの家に住みつづけている…‥。」(美しい日本の暮らし)

 毎年かならず夫婦で眺めに行くのが、住いから2キロほど歩く奈良室生寺の末寺の蓮華寺(本天沼2丁目17)で、境内の桜は約四、五十本ほどあり、やや白っぽく清楚な花で、ことに墓地に咲く花が美しいと記し、行く度に来年は揃って来られるかどうか、チラリと思われないこともないと複雑な思いも書いている。

                                               蓮華寺の古木

蓮華寺の古木そして天沼の地で晩年、脳いっ血で病床にあった上林暁荻窪北口界隈が文学への執念から口述筆記で凄絶な作品を残したことを思い「桜を見れば上林さんのことを思い、上林さんのことを思うと蓮華寺の桜を思う。/一年に一度どうしても足を運びたくなるのは、老いてなお凄烈な文学魂の主であった方を偲ぶことで、我が心をひきしめようという気持がひとりでに働いているからかも知れない。」(夫と妻の元気な老い仕度)と哀惜をこめ書いている。

蓮華寺の桜は、参門横の古木をはじめ周囲十五、六本を残すのみであるが、いまも見事な花を咲かせている。

忍川橋を渡りさらに進むと、まもなく環状8号線道路にぶつかる。その桃二小南の横断歩道を渡り、やや細い住宅街への路を行き、二つ目の十字路附近(南荻窪4丁目12)は、昭和7年から阿部知二(19031973)が住んだところだ。

 昭和5年、評論集「主知的文学論」で注目され、代表作「冬の宿」はこの地で昭和11年に書かれ、第10回「文学界賞」を受賞した。

阿部知二の旧居のあった付近阿部知二の住んだ4丁目12付近

「冬の宿」は積極的に行動する勇気もなく、読書で毎日を過す大学生の主人公が、ある家に下宿してひと冬をすごすのだが、その家族の異常な生活に巻きこまれる体験をする。貧しい夫婦の争いと、思想運動をすべて禁圧されていた青年たちの暗い青春時代を描き、昭和10年前後の知識人の心象風景を浮き彫りした名作といわれ、昭和13年に豊田四郎監督、勝見廉太郎、水町廉子、原節子の配役で映画化された。主な作品に「風雪」「白い塔」があり、未完となった「捕囚」は小林多喜二がうけた弾圧の悲劇を描いたものだった。英文学者としても活躍し、翻訳にスティーブンソン「宝島」メルヴィル「白鯨」オースティン「高慢と偏見」またシャーロック・ホームズ・シリーズなどがある。

路をはさんで西隣り(南荻窪4丁目13)には片岡鉄兵(18941944)が住んでいた。横光利一らと「文芸時代」を創刊、新感覚派として活躍したが、のちプロレタリア作家となり、弾圧をうけ獄中で転向、以後大衆小説作家となった。プロレタリア時代に「綾里村快挙録」。戦後作品に「東京の暦」「尼寺の記」などがある。昭和16年に片岡が転居したあと阿部が移り住み、戦後の昭和25年まで住んだ。

阿部がこの地に移り住んだのは、大正10年、西村伊作(18841963)が与謝野鉄幹らと日本で初めての男女共学、自由主義教育を実践するため神田駿河台に開設した文化学院で昭和6年講師となり、知遇を得た与謝野鉄幹・晶子夫妻荻窪駅南界隈その3がこの近くに住んでいたからであろう。

「荻窪にて」の中で「夕方近所の路をあるいてゐると広い空地のところで真赤な落日を見た。空地は一面に茅がしろじろと枯れてゐて、ところどころに杉の木立があり、枝ぶりのいい松の木が並んでゐる。白い茅の穂をかがやかせて日が沈んで行つた。/久しぶりに美しい落日を見たとおもつたが、これも冬の夕方の冴えた空気のおかげであらう。」と当時の風景を描いているが、このあたりは住宅街なので、いまもさして変らない落日がみられるかも知れない。

十字路の南側(南荻窪4丁目9)には、昭和23年より田村泰次郎(19111983)が、三年ほど住んでいた。学生の頃に井上友一郎、坂口安吾らと同人誌「桜」を創刊するなど文学活動に入り、異常な従軍体験をもとに戦後「肉体の悪魔」を発表。戦場の中国を舞台に民族思想をこえた人間のつながりを求める男女の姿を描いた作品は、戦後の荒廃した人々に感動を与えた。次の年に、敗戦直後の廃墟となった東京で身を売る若い娘たちを描いた「肉体の門」は空前のベストセラーとなった。幾度も映画化され、四度目の作品は昭和63年、監督五社英雄、かたせ梨乃、名取裕子、渡瀬恒彦らが出演した。

流行作家となった昭和26年に区立荻窪小学校近く神明町149(現在の南荻窪2丁目5)に引越し、昭和44年世田ヶ谷区に転居するまで住んだ。

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