荻窪駅南界隈その2      


 「荻窪の地名は善福寺川沿いの窪地に、荻(おぎ)が群生していたので、その名が生まれたと言われています。古老は『おぎくぼ』と呼ばず、『おにくぼ』と呼びます」と郷土史家である森泰樹「杉並風土記」にある。がまた、上荻にある光明院の堂が荻堂と呼ばれ、これが地名になったともいう。荻窪駅上がりホーム前方線路際に、由来となった荻が栽培されているのをごらんの方も多いにちがいない。                            駅構内の荻園 荻窪駅構内の植込み荻

 同駅は明治24年に武甲鉄道駅として開設され、同39年国有化され、現在は中央線、総武線、地下鉄丸の内線の通る主要駅である。

 昭和7年から戦後まで荻窪2丁目に住んだ「冬の宿」著者の、阿部知二(1903〜1973)【荻窪駅南界隈その2】がエッセイ「荻窪にて」でその荻窪駅のことを記している。
 「‥‥もし次の電車がくるまでに二三分も余裕があると見ると、晴れた日ならばプラットホームの西の端まで歩いてゆく。‥‥どうして私がそこにゆくかといふと、その端から、富士が美しくみえるといふことをある日偶然に発見したからである。電車の停車するところからは随分掛けはなれてゐるところであまりそこまで歩いてゆく人は少ない」そして「西南の方向に向って、荻窪の土地はやや低くなり、それから丘陵になって高まってゐる。その斜面には一寸っと感じのいい洋館の屋根がみえ、一面に杉杜がつづいてゐる。この近景の向ふに、富士山が、晴れた日なら美しくみえるのである。……晴れた冬の朝ならことにいい」と絶賛しているが、残念ながらその風景はいま、西南の方角にビルが立ちはだかってみられない。

蕎麦稲葉屋あとのビル 荻窪といえば、井伏鱒二荻窪北口界隈】の「荻窪風土記」が挙げられる。昭和のはじめから戦後にいたる荻窪界隈、阿佐ヶ谷界隈の変遷と文学者の交友を、克明に記しているが、荻窪駅南口周辺の記述は意外に少ない。

稲葉屋跡のビル付近 

「震災避難民」のなか、関東大震災で都内から線路伝いに中野高円寺阿佐ヶ谷と逃れてきたくだりに、荻窪駅に辿りつき「ここから駅の南口に出て、人だかりがしてゐるところに近づくと、蕎麦屋の前の広場で茶の接待をして、消防の半纏を着た男と巡査が、数人の避難民に鉄道の情報を知らせてゐた。(蕎麦屋は南口の稲葉屋さんであったことが後年になってわかった)」とある。

昭和8年「病気入院」の項では「よく私は一人で駅の附近を散歩してゐて、南口の稲葉屋で太宰(治)が笊蕎麦を前に、日本酒をちびりちびり飲んでゐるのを見ることがあった。学校へ行くやうに人には見せて、自分の部屋で習作をするか、ぶらぶら歩くかして日を送る。一人で飲むときには、たいてい同じ店に行ってゐたやうだ。稲葉屋の長っぽそい土間と、古めかしい上り框は好きらしい。片膝を長く上り框に載せ、片足は土間に立ててゐる。または上り框に胡座をかいてゐることがある‥‥」

店内のいかにも太宰らしい所作を描いているが、書中に名の出た蕎麦稲葉屋(荻窪5丁目29)は昭和40年頃に廃業し、ビルにその名をとどめるのみだ。

駅前を左に行き、南口仲通り商店街のアーチをくぐりひとつ目の角を左に、荻窪電話局前の交差点を直進すると左手に武家長屋門がみえてくる。「明治天皇荻窪御小休所」と刻まれた史跡碑があり、明治16年天皇が行幸の途、休憩された御行在所である。

さらに200メートルほど行くと、右角に古びたカラフルな二階建てが見えてくる。昭和6年に建てられた洋館で丸屋根青銅のドームの下には、「西郊ロツヂング」と読める。現在は「割烹旅館西郊」となっている。当時はこのあたりは関東大震災で旧市内から次々と移り住んできた新興住宅地となっていて、「西郊ロツヂング」はベッド、マントルピースや電話などを備えた洋間の個室で、いわば高級下宿として人気をあつめた宿だった。軍人や高級サラリーマン、地方名士の子弟、文人などが住んだという。昭和27年の文芸年鑑では、のちに天沼2丁目に住んだ藤原審爾阿佐ヶ谷北界隈その1】が西郊ロツヂングを住所にしている。                            

古色蒼然の西郊ロッヂング いまも残る西郊ロッヂング

西郊ロツヂングの角を南にたどると200メートルほどで大田黒公園になるが、その中間左手の荻窪3丁目37附近に、児童文学者の石井桃子(1907〜2008)が住む。昭和22年、小学二年のノンちゃんを主人公に父母や兄の話を明るくユーモラスに描いた「ノンちゃん雲に乗る」を発表。戦後の殺伐とした時代に夢と希望をあたえた。のち昭和26年に第一回文部大臣賞を受賞。昭和30年倉田文人監督、原節子、鰐淵晴子、藤田進の配役で映画にもなった。

著書には「三月ひなのつき」「ふしぎなたいこ」など数多いが、ほか「クマのプーさん」「ピーターラビットシリーズ」などの翻訳も知られている。

 
 昭和33年、自宅の一角に「かつら文庫」を開設して、子供たちに多くの本を読んでもらいたいと読書指導にあたるほか、「名作選」など図書の刊行に力を注いだ。これらの記録は「子どもの図書館」(岩波新書)に収められている。「かつら文庫」ほかいくつかの家庭文庫が母体となって、昭和49年「東京子ども図書館」〔中野区江原町1-19-10〕が生まれ、現在児童室、文庫のほかに講習会の開催や出版など、さまざまな活動を行なっている。
 荻窪かつら文庫
                    かつら文庫前附近住いが近いので井伏鱒二荻窪北口界隈とは親しかった。井伏が翻訳「ドリトル先生」シリーズを手がけたのは、石井のすすめがあったからだ。後年「井伏さんとドリトル先生」の中でそのいきさつをのべている。

昭和16年日米開戦直前の頃、アメリカの友人から手に入れた「『ドゥーリトル先生のお話』をたいへんおもしろく思い、次に井伏さんをお訪ねすると、早速その粗筋をお話しした。/井伏さんは、目をパチパチさせながら、その話を聞き終え、『いい話ですね。いい話ですね。日本の子どもの話って、糞リアリズムで厭味だ。こういうふうにいかないんだなあ』とおっしゃった。::『戦え、戦え』の時代に、まず子どもたちに、どんな本を読んでもらいたいかということを考えたとき、私たちがまず思いついたのは、無謀かも知れないけれど、『ドリトル先生のお話』だったのである。/紙の配給やお金のことは、ほかの友人が心配する、私の役目は、井伏さんに『ドゥーリトル先生のお話』を訳してくださいとお願いするというところに、私たちの間で事は勝手にきまってしまった。/さて、じっさいにどう井伏さんに交渉し、「よし」といっていただいたのか、そこのところが、私の記憶からまったく欠落している。」とある。昭和16年の「ドリトル先生『アフリカ行き』」から、戦後はその続編の「ドリトル先生航海記」など十二巻「井伏さんを文字通り煩わしつづけたから、私のいま言える本音は、『井伏さん、ごめんなさい。長らく創作のおじゃまをしました』なのである。」と述懐している。

平成6年に「幻の朱い実」で第46回読売文学賞をうけた。平成19年、百歳の誕生日を迎えられ、原稿の口述をするなど元気な日々を過しておられたが、平成20年惜しくも亡くなられた。

風情のある大田黒公園 風情のある大田黒公園

大田黒公園(荻窪3丁目33)は、音楽評論家、大田黒元雄(1893〜1979)の旧居あと。遺族から寄付され回遊式日本庭園として、昭和56年開園された。日本にはじめてドビッシーやストラビンスキーを紹介したことで知られるが、一般に戦後NHKラジオの人気番組「話の泉」での博学解答者として記憶されている。

正門を入ると大銀杏の並木がつづく。正門手前から右にあがると、受付の先に茶室と、いまは記念館となっている仕事部屋だったレンガ色の建物がある。

          百年もの年月を刻むピアノ百年もの年月を刻むスタインウェイ

室内には生前愛用されたスタインウェイのグランドピアノやウィリー社製の蓄音機、著書が展示されている。百年もの年月を刻むピアノは、市民グループ「座・大田黒」のメンバーの手で修復され、そのピアノを使って平成13年ピアノ・コンサートを開いたのは、ピアニスト青柳いづみこ(1950〜 )。井伏鱒二ら阿佐ヶ谷会の一員であった祖父青柳瑞穂の評伝「青柳瑞穂の生涯-真贋のあわいに」で、祖父の師である詩人堀口大学を通し大田黒の薫陶を受けたことを記していて、その奇縁が、ゆかりのドビッシーの演奏となった。                               

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