野方沼袋界隈 その3


天野書店は平成2年、現在の地(沼袋2丁目30)に店を移した。沼袋駅北口商店街を進み、坂をあがりきるあたりの右手にある。店を入ると基本図書、学術書が中心の落着きのある書棚の奥に帳場があり、左右に福原麟太郎揮毫の色紙額が二幅かけられている。そのひとつ「かうして人間は日々賢くなってゆく」は、野方店舗の時代に阪田寛夫が目にとめたものだ。

福原麟太郎色紙額 天野書店所蔵 福原麟太郎色紙額

阪田の「散歩者の弁」に若主人と書かれた当主天野美冶(55)は、福原没後「野方閑居の記(野方の里収録)」の復刊に尽力し、また長年かけて揃えた福原麟太郎随筆全集をはじめとする90冊ほどの著作全冊を、出身の福山誠之館同窓会に寄贈するなど、古書店主ならではの傾倒ぶりをみせている。福山誠之館の開校は1855年、福山藩主阿部正弘によるもので名門校。作家の井伏鱒二も同校の出身だ。

古書店は多くの研究者文学者とつきあいがある。そのひとり埴谷雄高野方沼袋界隈其の2で紹介】は「死霊」のイメージとはちがって明るく多弁なひとだったと天野店主は回想する。短篇集「ポロポロ」で知られる田中小実昌や「魔女の宅急便」の著者、角野栄子がよく顔を見せたという。

資料文献の注文を受けるという石川英輔(1933 )は、近く新井薬師寄り新青梅街道際の(沼袋2丁目16)に住む。パロディ版「SF西遊記」でデビュー。現代人と江戸芸者の時空を超えた恋心を描いた「大江戸~仙伝」がユニークな着想で好評をはくし大江戸タイムスリップ・シリーズとなった。一方、江戸時代の資源エネルギーに着目、執筆された「大江戸えねるぎー事情」は、江戸住民を支えた生活エネルギーと現代の消費エネルギーを、あかり、水、米など生活に密着した23項目の具体的なデターで検証し、江戸時代がいかに太陽エネルギーを効率よく使い環境を壊すことなく生活していたかを理解させてくれる。文献からの挿絵も多く、面白く読める。

石川英輔宅ふきん                            石川英輔宅附近

江戸の生活を支えた資源は太陽エネルギーを受けた植物に支えられていた。使われたそれらは自然にかえりまた太陽エネルギーによって再生されて循環する。江戸時代はいわば「植物国家」だったというのが石川の説だ。続刊の「大江戸リサイクル事情」「大江戸えころじー事情」など大江戸事情シリーズも話題の書。

手の入らない、鬱蒼としげる蔦や庭木の奥まった住いにある家庭菜園では、みずから「植物国家」を実践しているそうである。           

円地文子(19051986)が昭和7年から住んだ(沼袋4丁目34)は、天野書店すぐ先の角を左に入り150メートルほどの右角になる。

娘の冨家素子「母・円地文子」に「当時の沼袋はまったくの田舎で、駅前の大通りは商店街で賑やかだったが、その先の私達の住んでいた住宅街を過ぎて二十分も歩けば、畑が広がり農家の庭を鶏が走り廻り、牛がのどかに鳴き、鎮守の杜には白い幟がはためいていて、武蔵野の面影が色濃く残っていた。私の家は駅から歩いて十五分位だったろうか。沼袋は坂の多い地形で、我が家もなだらかなスロープを上がった四っ辻の一角を占めていた」とあり、円地の最後の書「夢うつつの記」には「……私の家は駅から六、七百メートルのところにあって周囲も建売りの新しいだけでお粗末な住宅でうまっていた。しかし二階から見ると、沼袋の駅までには殆んど家がなくて、野良地だった。その家に私は娘が女学校に入るまで十三年間住んだわけだが……」と記すが、その情景はすでにない。

国語学者上田万年の娘で、病気、被災のため不遇な時代が長かったが、昭和29「ひもじい月日」が第6回女流文学者賞を受賞、以後「妖」「女坂」などを発表。「なまみこ物語」は昭和41年第5回女流文学賞を受けた。昭和42年から「源氏物語」の現代語訳に着手し、網膜剥離を病みながら昭和48年全10巻を完訳した。のち昭和60年文化勲章を受章した。

円地文子旧宅のあった附近 円地文子旧宅のあった角地附近

「晩年の作『菊慈童』は老境に達した女心をえぐって妖美、艶冶、頽唐、倒錯、情趣等、円地文学の生命が脈々と息づいている作品」と評された。

昭和21年、空襲で家が全焼し疎開した円地は、台東区の実家に居を移した。その跡地に親交のあった平林たい子(1905−1972)が家を建て5年の間住んでいた。夫の小堀甚二とともに、昭和12年人民戦線事件で検挙拘留され健康を害して、腹膜炎、肋膜炎など重篤な容態になった折、円地が世話をし神近市子らと救援運動までした間柄で、そのいきさつは円地の「戦争中の平林たい子」に詳しい。この地へは戦後、夫の不倫に苦しみ精神的な離婚を決意して移ったという。

平林家から西方向へ15分ほど行ったあたりに住んでいた耕冶人野方沼袋界隈その2で紹介】は「家が近かったから、私も家内もときどき平林たい子さんを訪ねた。訪ねる回数は、私より家内の方がずっと多かった。/平林さんが私どもの家に来られることはなかったから、訪問は一方的なものだったが、あるとき訪ねた家内に、自分が死んだあと文学賞をつくりたいが、どんなふうにしたらよいか考えがまとまらない、と言われた」(平林さんを偲ぶ)と書いている。その時の平林の胸中には赤貧のなかで文学に精進する人々になにか報いたいという思いがあったにちがいない。そして死後創設された第1回平林たい子文学賞は、誰よりも与えたかったであろう耕冶人が受賞した。生前「私共がどれほど平林さんのお世話になったか、いちいち並べることは出来ないが」と書いた耕は末尾に「平林さんが亡くなられたあと、家は取毀され、別の人の家が建ったが、月に何回か私の足は自然とそっちへ向くのだ。/平林さんが生きていらしたあいだ、もっと度々訪ねればよかったという後悔に似た気持が、私にあるためかもしれなかった」(平林さんがなくなったあと)と哀しい気持ちを記している。
 昭和22年「こういう女」、昭和43年「秘密」で、第1回女流文学者賞、第7回女流文学賞をうけるなど、病みがちながらめざましい活躍をして、宮本百合子、林芙美子と並び称された。没後、昭和46年に芸術院恩賜賞をうけた。 

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