野方沼袋界隈 その2


現在の若者たちに大きな影響を与えている「死霊」を終生書きつづけた埴谷雄高(1909- 1997)も同じ年に不敬罪などで入獄し、翌年執行猶予で出所した。太平洋戦争勃発の昭和1612月ふたたび「予防拘禁法」で拘禁されたが、年末に戰果著しいとして釈放された。入獄中の日々の様子を綴った「灰色の壁」は、状況をドストエフスキイの「死の家の記録」と対比させ獄内の様子が克明に綴られている。    表門記念板  

中野刑務所表門記念板

 十字舎房の様子を「私たちを収容する主建物といってよいその八舎は、収容の多数と監視の利便というふたつの目的をもった刑務所でなければ恐らく見られぬたぐいのぶっちがいの正十字の形状をもった、上下がすぐ見渡せるがらんどうの大きな二階建てで、直角に四方へのびているその長い翼は、それぞれ、東、西、南、北の名を付されていた。たとえば、私が最初にいれられたのは艦橋のような鉄の手すりのついた二階で、従って、私は東上何房の百二十三番というふうによばれるのであった……」独房については「……隅に食器と給水桶と便器が置いてある一坪足らずの部屋も、また、鉄格子がはまっている高窓から覗かれる青空も、二、三十秒ほどながめていれば、私たちが緻密な脱獄計画でももっていないかぎり、もはや最初の一瞥以上の感興がわき起こってくるものではなかった」「一畳の畳の上に端座して腕を組みながら黙想しているのである……」「死霊」はそんな時期に構想を得たという。
 不朽の書「人生論ノート」がいまも愛読されている哲学者三木清
(1897- 1945)は、治安維持法違反の被疑者を仮釈放中にかくまったことで拘留され、東京拘置所からこの刑務所に移されたが、敗戦後も拘禁されたまま疥癬を病み、腎臓病を悪化させ、終戦から1ヶ月余の9月26日に亡くなった。1927年創刊の岩波文庫巻末「読書子に寄す」が、三木によって書かれたことを知る人は少ない。
                                 
敗戦後は連合軍の米軍拘禁所となったが、返還されてから中野刑務所と改称、しかし地域の発展と共に、昭和58年廃止となり、若き設計技師、後藤慶二の手になる赤レンガの優美な建物群は、逐次解体された。なかでも正面時計搭は建築史家に「二人のニンフに腕を掴まれて海面から浮び上ってきた『アフロディテ』の生誕のように」と評され、解体が惜しまれた。それがあってか、赤レンガの表門が公園南に位置する法務省矯正研修所東京支所内にそのまま遺され、明治大正時代に君臨した歴史の証としていまも緑に包まれ時の流れを見守っている。

            歴史を思わせる表門

表門全景 船木三郎「東京中野物語」(2001年発行私家版)には、中野刑務所表門近くに住んだ少年の頃を回顧した一文がある。「刑務所正門の脇に立派な花崗岩製のライオンが坐って、その口から排水して池に溜まった。夏には此処で手製の木製潜水艇を作った。……中略……池の裏は公園でブランコ、スベリ台、砂場があり、年一回秋にここで囚人作品のバザーが開かれた。市価半額位で洋服タンス、鏡台、農耕具、靴等々大抵の品物が出品されたし、大勢の人々で賑わった」とあり、当時の刑務 所表門周辺の様子が述べられていて興味深い。(「中野のまちと刑務所」昭和59年中野区発行を参考にしました)           
 西武新宿線沼袋駅のひと駅さきは野方。鷺宮、沼袋をふくめ、古くからこの一帯は野方と呼ばれていた。田園の多い豊かな地方を里方と呼ぶのに対して、荒野の多い地方を野付、野方と呼んだこ とが由来とされる。駅前踏み切りからみた北原野方駅から踏切を渡り北原商店街を行くと、右手にスーパーマーケット「サカガミ」がある。かって野方名画座のあったところで、五木寛之〔鷺宮界隈その2〕で紹介]が学生の頃に下駄履きで通ったという。

駅前踏切から見た北原通り
 商店街をさらに北に向い、新青梅街道のひとつ手前の居酒屋魚文の角を左に入り、80メートルばかり先の交叉点右付近、突きあたりが新青梅街道になる(野方6丁目50)に、昭和32年から同34年まで安部公房(1924-1993)が住んだ。かつて材木屋の一角だったが、いまは普通の住宅になっている。昭和26「壁―S・カルマ氏の犯罪」で第25回芥川賞を受け、前衛的な独自の手法を駆使して小説、戯曲を発表。つねに奇抜な斬新さで話題を呼ぶ作品を書いた。演劇の世界でも「安部公房スタジオ」を昭和48年に結成し、自作の演出、上演を精力的に行なった。作品は海外でも翻訳上演され、国際的な評価も高い。小説に第14回読売文学賞を受けた「砂の女」、ほかに「箱男」「他人の顔」などがあり、戯曲に「幽霊はここにいる」や、第22回芸術選奨文部大臣賞を受けた「未必の故意」がある。

安部・井上の住んだあたり
               安部・井上の住んだ野方6丁目附近

砂丘地帯に昆虫採集にやってきた男が、迷った挙句、砂の穴にある未亡人の家に一夜の宿を借りるが、閉じこめられ、そこから脱出しようとしてできず、怒り、もがき、哀しみ、いつしか未亡人と関係をもち、やがて砂の中に同化されてしまうという、極限の状況を象徴的に描く「砂の女」は、昭和39年に映画化された。前衛映画の巨匠、勅使河原宏監督、岡田英次、岸田今日子主演で、カンヌ国際映画祭審査員特別賞をうけるなど、国の内外で高い評価をうけた。「砂の女」は岸田今日子の代表作のひとつとなった。               

 安部が昭和34年に調布に転居したあと、井上光晴(1926- 1992)がその家に4年ほど住んだ。「虚構のクレーン」を執筆していた頃のことで、当時編集者だった松本昌次は「……連載は「現代批評」の解散・廃刊によって中断、あとは書きおろすことになった。とはいっても、食うことに追われ、同時に遊び・飲むことにも追われている井上さんが、そう簡単に、書きおろせるはずがない。かくして、中野区野方の井上さんの仮寓(安部公房・真知さんが以前に住んでいたという、材木屋の一角)への日参ならぬ、夜参り(?)がはじまったのである。……」と当時の様子を追悼文集で記している。

井上は福岡県出身で、大岡昇平らとともに戦後文学の旗手といわれ、主な作品に、さまざまな差別を描いた「地の群れ」被爆者や被差別部落の問題をとりあげた「虚構のクレーン」太平洋戦争中の学徒兵たちを描いた「死者の時」九州を舞台にして炭坑閉山問題をとりあげた「階級」など。旺盛な筆力で長編小説を次々と発表したほか、昭和52年に佐世保市に「文学伝習所」を創設、以後全国14ヶ所に伝習所を拡げ、後進の育成指導にあたった。 平成元年に見つかった大腸ガンが2年後に転移、入院手術の闘病生活のなかでの活動記録が、テレビで放映された。「地の群れ」は昭和45年、熊井啓監督で鈴木瑞穂、寺田誠、宇野重吉らの出演で映画化された。平成6年に公開された「全身小説家」は異色のドキュメンタリー。監督、原一男が小説家井上光晴の晩年5年間を密着取材した映画で、その壮絶な生きざまは多くの人々の感動を呼んだ。

野方の笑い地蔵野方笑い地蔵

 平成元年「わたしのヌレエフ」で第1回フェミナ賞を受賞した作家井上荒野(1961- )は、その長女で没後出版された「ひどい感じ 父・井上光晴」に、「私が生まれたのは東京中野区野方の家で、安部公房さんから紹介してもらった借家だった」と述べている。同書は、虚構の真実に生きた父「全身小説家」の姿を娘の目から忌憚なく描いて、昭和を駆けぬけ生きた作家の姿を浮かびあがらせてくれる。平成20年「切羽へ」で第139回直木賞を受けた。

  野方地域は昭和39年東京オリンピックの年に開通した環状7号線によって、東西に縦断されてしまったが、西武新宿線野方駅附近は活気あふれる商店街が広がっている。駅前南への通り右奥には商店街のマスコット「笑い地蔵」があるが、真直ぐ進むと、すぐ「やっほろーど」に突きあたる。それを左手に行くとバスロータリー。
 その広場の前が野方地域センターのある総合ビル野方
WIZで、かつてここ(野方5丁目3)に古書天野書店(当時天野冶男店主)があった。鷺宮に住んだ阪田寛夫鷺宮界隈その1で紹介】が通った店だった。阪田は還暦にまもない年に体調を崩し、そのリハビに医師から散歩をすすめられ、はじめは隣り駅の都立家政まで、やがて野方駅あたりまで歩くようになった。


                                           野方WIZ附近
野方WIZ附近 
 九月に入って野方の駅近くまで散歩に出て、初めて入った古本屋で、福原さんの随筆の本ばかり十冊近く並べてあるのを見付けた。流石に本当の地元だけあると、此の間よりもっと感心した。十冊近くの本を次々ひらいて眺めているうちに、「野方の里」という文章の中に野方町一丁目何番地と、昔の住所表記が出ているのを見つけた。昭和二十三年以来住みついたとある。その頃、垣根の外は見渡す限りの麦畑だったそうだ。番地をたよりに家を探すのは散歩者らしくないので、その代わりにこの文章が載っている本を買うことにした。……」
(散歩者の弁)と書く。

 その時、もう一冊「芝居むかしばなし」が欲しかったのだか、持ち合わせがなかったので、急いで家に戻り今度は自転車を飛ばし買いに行く。すると若主人から福原さんの本を集めているのかと尋ねられる。そして壁にかかった色紙の入った額を指さして、これも書いて頂いたのだが、うちの店によくおいでになりましたと教えてもらい、色紙は「かうして人間は日々賢くなってゆく」と書かれていて、シェイクスピアの言葉だそうだと、これも教えられた。

著者の福原麟太郎(1894 -1981)は英文学者で、西武新宿線北側の沼袋と野方の間、すこし野方よりの(野方4丁目39)に終生住んだ。
 「野方の里」で、昭和
23年頃、町の中心である商店街をでると、見渡す限り海のような麦畑があったが、住みついて13年経つと、小さな横丁もアスファルト道になって、野方は近代的な美しい住宅地に変って来たと書いているが、居宅だったあたりには、いま建てこんだ住宅が拡がるばかりで、「野方の里」に出てくる風情はない。
 福原の文章はいずれも平凡な日常生活を描くが、なにげない中に人間的な洞察をちりばめ、共感を呼ぶ。シェクスピアやラム研究の第一人者ならではの文章だ。昭和36「トマス・グレイ研究抄」で第12回読売文学賞、昭和38「チャールズ・ラム伝」で第15回読売文学賞、同年日本芸術院賞も受けた。昭和43年文化功労賞を受賞した。

 耕冶人(1906 -1988)は、福原とほぼ同時代に生きた作家で、福原の居宅にごく近い野方より(野方4丁目30)に住んだ。詩人千家元麿に師事し、詩作のほかに身辺雑記を作品に描きつづけたが、不遇の生涯だった。昭和4261歳に書かれた「一条の光」は、戦争末期、貧しい中を懸命に生きた夫婦の不安な身辺を綴った作品で、第21回読売文学賞をうけた。昭和48年には千家元麿との関わりを臨終まで描いた「この世に招かれてきた客」などの業績で第1回平林たい子文学賞をうけ、「耕冶人全詩集」は第31回芸術推奨文部大臣賞を受賞し、やっと苦労がむくわれた。

最晩年、みずからのガンとたたかいながら、認知症の妻と暮す日常を描いた「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」は身につまされる話ばかりで、生死の極限にせまる凄絶な「命終三部作」として高く評価されている。「そうかもしれない」は、平成189月末に、保坂延彦監督、雪村いずみ、桂春団冶主演でロードショウ公開された。                                                            

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