野方・沼袋界隈その1


 西武新宿線沼袋駅の南側近くを流れる妙正寺川は、この先で大きく北にうねりをみせる。そのためか、このあたりの丘陵に挟まれた川周辺の低湿地は、大雨が降るとあちこちが沼地になることから沼袋と呼ばれてきた。

公衆トイレのある沼袋駅前 駅前に公衆トイレのある沼袋駅

 田圃ばかりだったこのあたりが、沼袋駅が開設された昭和2年頃からは高台を中心に住宅地が開け次第に町が作られ、江古田方面への坂のある通りは商店が軒をつらねるようになり、いまは賑やかな駅前商店街となっている。沼袋というと、真っ先に浮ぶのは、林芙美子(1903-1951)JR東中野界隈で紹介が戦後、昭和23年に発表した短篇「晩菊」である。
 
若い頃に元赤坂の芸者だった老女(といっても56)のきんは、敗戦まえ沼袋に捨て値同然の値段で電話つきの家を買い疎開してきたが、空襲で焼けずにすんだので、いまは小金貸しをして女中と暮している。かつての朋輩にも容赦なく厳しいとりたてをして小金を貯め、この世は金がすべてとの信条で生きている。老いたとはいえ容色にはまだ自信があると思っている。「風呂では、きんは、きまって、きちんと坐った太股の窪みへ湯をそそぎこんでみるのであった。湯は、太股の溝へじっと溜っている。吻っとしたやすらぎがきんの老いを慰めてくれた。まだ、男は出来る。それだけが人生の力頼みのような気がした」そのきんにかつて激しい恋をした男からひさしぶりに会いたいと手紙をうけとり心ときめく。その日「別れたあの時よりも若やいでいなければならない」と急いで風呂へ行き、入念に化粧をして待つが、男は昔のよしみで金を借りにきたのだと分る。話すうちにきんは興ざめ心は離れる。大事にしていた男の写真も火鉢で焼き捨てた。男と女の修羅場、愛憎に揺れ動く老女の心理を見事に描き出した「晩菊」はしみじみと人生を感じさせる。


きんの住いを思わせる古いしもた屋

 作品に沼袋の町は具体的に描かれていない。作者は近くの下落合に住んでいたので、このあたりを知っていて舞台にしたようだ。沼袋は昭和20年の空襲で商店をはじめ町が全滅したそうであるが、きんの買った家が焼けず残ったのは商店街から離れた場所だったからであろう。「洋服は此時代になるまで一度も着た事はなく」「すっきりとした真白い縮緬の襟に、藍大島の絣の袷、帯は薄いクリーム色の白筋博多をしめ」「女中との二人住いで、四間ばかりの家うちは、外見には淋しかったのだけれども、きんは少しも淋しくもなかったし、外出ぎらいであってみれば二人暮しを不自由とも思わなかった」その住いには長火鉢があり茶箪笥がありラジオがあって、火鉢のひき出しにはのべ銀の細い煙管が入っている。銭湯通いをする老女の住居は羽目板囲いで、磨かれた格子戸は出入りにチリリンと鈴が鳴りひびく、戸締りのいいこじんまりとしたしもた屋が浮ぶ。「晩菊」は第3回日本女流文学賞を受けた。

 林芙美子はその後「浮雲」「茶色の眼」などの作品を発表し「放浪記」以来、円熟した作品を次々と書き人気作家となったが、昭和26「めし」を朝日新聞に連載中、急逝した。

 「晩菊」は、いまでは溝口健二、小津安二郎、黒澤明につぐ巨匠の成瀬巳喜男監督で昭和29年映画化された。田中澄江ほかの脚本で作品「水仙」「白鷺」をあわせ脚本化したもの。きんに杉村春子、田部に上原謙、ほか細川たか子、望月優子が昔の芸者仲間で、底辺で懸命に生きる人間ドラマを描いた。成瀬は林の没後「浮雲」そして絶筆の「めし」を映画化し代表作の一つとなった。

 沼袋駅から南へ妙正寺川を渡ると、緩やかな坂となり右手に広い緑地が見えてくる。区内では哲学堂公園につぐ広さの平和の森公園(新井337)で、もと中野刑務所だった。昭和58年、中野刑務所が廃止されたあと逐次整備され、平成14年には全面開園した。芝生広場、水辺の広場、少年のスポーツ広場などがあり、公園事務所内には平和資料展示室がある。平成元年に開設され戰時の区民が体験した学童疎開や空襲などの資料展示や、映像図書コーナーがある。(入場無料)

              平和の森公園芝生広場

およそ5.5ヘクタールに及ぶ広い園内は、災害時の広域避難場所に指定されている。戦後、刑務所の構内で竪穴式居住址をはじめ縄文時代、弥生時代の土器石器が発掘され、園内には弥生時代の竪穴式住居が復元展示されている。

 解体され姿を消した中野刑務所は、かつて明治大正時代には豊多摩監獄と呼ばれ、のち豊多摩刑務所と改称された。大正昭和時代には、思想弾圧のための「治安維持法」で多くの思想家文学者が投獄された。大杉栄(18851923)もそのひとり。大杉は社会運動のかかわりで出入獄をくりかえし、豐多摩監獄には大正8年から9年にかけて入獄した。関東大震災の際には憲兵によって虐殺された。瀬戸内寂聴(以前は瀬戸内晴美・1922 )「美は乱調にあり」で激しく生きた伊藤野枝の半生を描き、さらに伊藤が再婚した大杉の波乱にみちた生涯を「階調は偽りなり」で描いた。それらの長編小説は迫り来る暗い時代、民衆のために壮絶に生きた伊藤、大杉の生涯をあますことなく描いて感動的だ。大杉には著作が多いが、訳書にフアーブルの「昆虫記」があることは知られていない。(岩波文庫絶版)

大正15年には荒畑寒村(1887 1981)が投獄された。十六歳の時に幸徳秋水らの影響をうけ社会主義運動に入り、戦後は日本社会党の創設に加わり、衆議院議員となった。評論家としても知られる。

昭和3年には亀井勝一郎(1907- 1966)阿佐ヶ谷北界隈そので紹介】が「治安維持法」違反で検挙され入獄したが、病を得たこともあり、いわゆる転向し釈放された。のち「わが精神の遍歴」の中で「鐡の門がにぶい音をたてて閉された。洞窟の深部のやうな陰鬱な静寂さがあたりを支配している。……中略……気がついてみると未決囚の番号をつけて豊多摩刑務所の独房に坐っている(幽閉記)」と書き出し、獄中の観察記録と強大な国家権力の前に信念を翻えさぜるを得なかった非力な自己の懊悩を語っている。戦後はその負い目に苦しみつつも、文芸評論家として著作を多く残した。「愛の無情について」「大和古寺風物誌」「美貌の皇后」は、歴史を深くみつめる思索の書である。

表門鉄扉中野刑務所表門の鉄扉

亀井勝一郎が豊多摩刑務所を出獄した昭和5年に、「蟹工船」で不敬罪の追起訴をうけて、小林多喜二(1903−1933)が入獄した。プロレタリア文学の旗手として、函館を出港して蟹漁に携わる労働者の苛酷な世界を描いた「蟹工船」は資本による搾取収奪の社会を赤裸々に描いて官憲にマークされていた。翌年保釈出獄したが、のち獄中体験をもとに「独房」を書いた。「自動車は合図の警笛をならしながら、刑務所の構内に入って行った。……中略……俺たちは鉄の門を入った。入ると、後で重い鉄の扉がギーと音をたてゝ閉じた。俺はその音をきいた。それは聞いてしまってからも、身体の中に音そのまゝの形で残るような音だった。この戸はこれから二年の間、俺のために今のまゝ閉じられているんだ、と思った」と書いているが、事態はそんなことでは済まされなかった。翌年、保釈出獄したあと、昭和8年特別高等警察(特高と呼ばれていた)の拷問をうけ29歳の若さで虐殺された。検察当局は死因を心臓麻痺と発表、遺体は杉並馬橋3丁目375(現在の阿佐ヶ谷南3丁目222)の家に帰されたが、特高は通夜と翌日の告別式に集った友人文学者らを次々と検挙したので、葬式は母親セキと弟三吾、葬儀委員長の三人だけで営まれたという。

多喜二は母思いだった。死の前年夏、弟あての手紙では「今年は殊の外暑かったので、あの西日のさす室でお母さんがどの位悩まされたことかと同情している(中略)同封の金は、金が生命である僕が贈る金だと思って、(何故なら、時には、なすの漬けものだけで三日も過すことがあるのだよ)暑い盛りをよく我慢して暮した君のお母さんを一日涼しいところで遊ばせてあげるために使って下さい」と書き、次の日、皆のものあてに「永い間便りもせず、心配していたろう。何処にいても元気だから安心してくれ。お母さんどうしているか、そればかり気掛りだ。まァ永生きして下さい」と気遣っている。セキは貧乏のどん底で子供たちを育てあげたが、家庭を愛し大らかな心で多喜二を信頼し懸命に生きた母親だった。

昭和39年に「氷点」で世に出た三浦綾子(1922-1999)が晩年の平成4年に書き下ろした「母」は、文学者として権力の不正義と戦って敗れた多喜二の生涯と人間性を、八十八歳の母親の目を通し語っている。多喜二や周囲のものへ注ぐあたたかいまなざしと、不条理な現実に耐え生きる哀しみを描いている。クリスチャンの作者は「あとがき」に「第一に私の心を捉らえたのは、多喜二の家庭があまりにも明るくあまりにも優しさに満ちていたことだった。そしてもう一つ私の心を突き動かしたのは、多喜二の死の惨さと、キリストの死の惨さに、共通の悲しみがあることだった」と書いている。

国家に不利益なものは弾圧抹殺するという暗い時代を迎え、思想家文学者は特高の監視下におかれた。予防拘束が日常的に行なわれ、門を入って左手の十字舎房とよばれる獄舎に収容された。詩人の壷井繁治(壷井栄の夫)窪川鶴次郎(佐多稲子の夫)そして中野重治、埴谷雄高、三木清らが次々と拘束された。

表門から所内を望む                  中野刑務所表門から内部を望む

詩人で昭和を代表する作家の中野重治(1902-1979)は、豊多摩刑務所に多喜二と前後して入獄した。のち昭和7年から転向出獄までの2年間を獄中で過し、多喜二の虐殺は獄中で知った。34日付の妻への手紙に「23日の面会の時、面会所にはいって来たのを一目見て─その直前、係り官がお前さんを呼びに行って、何か物を言っているらしく聞えた時からだったが─ただごとでなく感じたが、「死」の知らせであろうとは思わなかった」(書簡集「愛しき者へ」)とあり衝撃のほどが分る。その知らせが転向のきっかけといわれる。昭和5年に入獄した体験をもとに書いた短篇「根」は、獄中で看守長から罰をうけ房を移された男が、そこの窓から高塀のむこうに茂る大木の枝葉が大嵐に揺さぶられ泰然として見えるさまに、その大木をしっかり支えているのは根であり、その頑張りだと知る。大衆の支えを根にみた寓意的な作品だ。だが、その根を断ち切ろうとする狂気にちかい国家権力には敵わなかった。自伝長編「むらぎも」で昭和30年毎日出版文化賞、「梨の花」で昭和35年読売文学賞を受賞した。中野を敬愛し終生師事した佐多稲子は、交友五十年を綴った追憶の書「夏の栞」で、中野の妻、中野政野(女優名原泉)が築地小劇場のストで拘留の際には、「幼児二人を連れて」重治との連絡にあたり、原泉が釈放されてからもなにくれとなく面倒をみて、獄中の重治を支えたことを記している。         

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