久我山界隈 その2


 井の頭線久我山駅から西へ次の三鷹台駅は三鷹市の東端に位置し、駅際の神田川から北が杉並区久我山となる。かつてこの近く三鷹市に住んだ小沼丹(19181996)荻窪北口界隈で紹介≫は昭和37年「三鷹台附近」と題して「三鷹台駅に改札口の附いたのは多分昭和十二、三年頃だつたらう。その頃は、駅に降りると線路を横切る道が一本左右に伸びてゐるばかりで、辺り一帯は葦の茂つた湿地であつた。線路沿ひに、井の頭池から出た小川(神田上水)が流れてゐて、釣師の姿をよく見掛けたりした。尤もこの湿地も三鷹台から先は田圃に変つて、菅笠を被つた女が田植ゑをするのを見たことがある。/小川に架つた土橋を渡つて左に行くと東京市で、立教女学校があり、人家もある(以下略)」と回想しているが、いまは神田川の流れに往時をしのぶばかりだ。小沼はのちに武蔵野市に住んだが、井伏鱒二に師事。荻窪の井伏邸に日参するほどで、いつも影のように付き添って歩いたという。随筆「清水町先生」は井伏の人となりをくまなく描いて、人間井伏がほうふつと浮びあがる名品である。寡作だった短編作品は温かいまなざしと独特のユーモアがあり、そのおかしみのうちに人生のペーソスを感じさせる。作品に「懐中時計」「小さな手袋」「椋鳥日記」がある。

駅北口をおりてすぐ、かつて小沼が土橋と呼んだ丸山橋を渡ると交叉点の左角に立教女学院の緑濃い敷地と瀟洒な建物がみえてくる。立教女学院は関東大震災後、大正13年に中央区から移転してきて、閑静な住宅街に学園の長い歴史を刻んでいる。

高圧線の見える松本たかし旧居附近

高圧線のみえる松本たかし旧居附近立教女学院横のなだらかな坂をあがりひとつ目の角を右折し、高圧線が頭上に迫る角を左に入ったあたり(久我山4 30)に俳人松本たかし(19061956)が住んだ。現在はマンションになってしまったが、昭和21年、俳誌「笛」を創刊し同じく俳人のツヤ夫人と終生住んだところ。高浜虚子に師事し「ホトトギス」同人となる。繊細な描写と切れ味の鋭い句風で、昭和29年に句集「石魂」で第5回読売文学賞を受賞。代表作のひとつ「十棹(とさを)とはあらぬ渡しや水の秋」は研ぎすまされた感性が伝わってくる。随筆「棲家」の中で「少し向うに高壓線の鐡搭が押し立つてゐる。座敷の眞ん中に坐つてゐても、その搭は七分所で庇に遮られ、頭が見えないのだから、かなり近いのである」と書かれた鉄搭は歳月を越えてそびえ立つ。

俳誌「笛」(久我山41411発行人田村鬼現)はいまも受け継がれ、平成176月には通巻671号松本たかし50回忌・松本つや女23回忌記念号を発刊した。

井の頭線陸橋、銀荘橋附近(久我山4 14)に若き歌人岸上大作(1939 1960)が住んだ下宿があった。日記によると二階の四畳半で三千円とある。岸上は国学院大生で短歌研究会に依り作品を発表した。昭和35年日本をゆるがした安保反対闘争に積極的に参加し、作品はその中からも生まれ「意志表示」と名付けられた50首の作品は「短歌研究」新人賞推薦作に選ばれ、新進歌人として注目されたが、同年12月失恋の痛手からと遺書を残し21歳で自裁した。安保反対闘争が象徴した時代のひずみが、不器用でナイーブな若い歌人を死に追いやったともいわれる。青春を生きた歌人、岸上大作の歌碑は、故郷兵庫県福崎町の墓碑の傍らにあり、「意志表示」の一首「意志表示せまり声なき声を背にただ掌の中でマッチ擦るのみ」が刻まれている。

                                  富士見ヶ丘駅前附近富士見ヶ丘駅附近

 井の頭線富士見ヶ丘駅北口を出て交通ひんぱんな商店街を北に行き、西友ストア前を左に入ったあたり、久我山5丁目24に文芸評論家の佐々木基一(19141993)《阿佐ヶ谷北界隈その2で紹介》が昭和26年から終生住んだ。敗戦後、いち早く埴谷雄高、本多秋五らと「近代文学」を創刊、戦後文学を推進し、埴谷雄高の「死霊」長谷川四郎「シベリヤ物語」「鶴」阿部公房「壁」などが世に出された。文学評論だけではなく映画評論など幅広く活動し、昭和32年に総合的な芸術運動「記録芸術の会」を発足させた。作家詩人およそ50名に加え岡本太郎、勅使河原宏、和田勉、市川昆、野田真吉、林光、武満徹ら各界の気鋭が参加した。評論「戦後文学は幻影だった」は本多秋五との論争で話題になった。昭和42年杉並シネクラブを城所昌夫、中薗英助、野田真吉らと発足させた。誰もがよい映画を手軽に鑑賞できるようにと、月一回久我山会館で内外の作品を上映する会員制の集いで、シンポジウムや上映作の講演などもあわせて行なった。会場はのち浜田山会館となり、ドキュメント映画やアヴァンギャルド映画などの上映は評判となり、その影響で各地にシネクラブが生れるほどだった。平成2年「私のチェーホフ」では第43回野間文芸賞を受賞した。作品に「同時代作家の風貌」、「近代文学」創刊から書き続けた長編小説「停れる時の合間に」がある。

 佐々木基一旧宅附近

佐々木基一旧宅附近 西友の通りを北に進み人見街道の先の交叉点を右に行ったあたり、高井戸西3丁目15に歌人の宮柊二(1912ー1986)が、昭和26年から5年間ほど、その日鉄(富士鉄)高井戸社宅に住んだ。昭和8年北原白秋の門下となり、その後、歌誌「多磨」創刊に加わり高弟として白秋を支えたが、応召して中国に渡り、そこで白秋の死を知る。復員して昭和21年歌集「群鶏」で歌壇の注目を浴び、ついで歌集「小紺珠」「山西省」などを精力的に上梓した。昭和28年歌誌「コスモス」を創刊主宰。昭和36年に「多く夜の歌」で第13回読売文学賞を受賞。昭和42年より宮中歌会始選者をつとめる。この頃から病みがちだったが、昭和50年、歌集「獨石馬」で第10回迢空賞、昭和52年第33回日本芸術院賞を受賞。昭和28年刊『日本挽歌』の「冬竹群」の一首「あたらしく冬きたりけり鞭のごと幹ひびき合ひ竹群はあり」はその頃に高井戸の社宅の前は鬱蒼とした竹群があって深い印象を受け詠んだ一首といわれる。社宅は消え他企業の寮となった。
 人見街道を右に十分ほど行く環状8号線近く高井戸西3丁目3の公団住宅に昭和32年から武田泰淳(1912ー1976)が住んだ。転居が多くここにも3年間ほどしか住まなかった。昭和58年刊、佐々木基一「昭和文学交友記」に「武田泰淳が、わたしの住む久我山の近くの高井戸の分譲アパートに越し武田泰淳の住んだ公団住宅跡のマンションてきたのは、五七年頃だった。歩いて行けるので、時々訪れては雑談した。机の脇にはいつも焼酎の一升壜と赤葡萄酒がおいてあって、いわゆる梅割り”というアルコール飲料を作って、それを飲みながら執筆するらしかった。その頃、武田泰淳はアルコールなしでは人前でものが言えないということで、行くといつもビールか何かを飲みながら話をした」とある。
       
武田泰淳の住んだ公団住宅跡のマンション
 写真家で長女武田花のエッセイ「カラスも猫も」の「昭和三十年代の思い出」には「高井戸の公団アパートは、周りが畑だった。小学校からの帰り道、駅から家までの十五分間に、どういうわけか、トイレにいきたくなる」と、のどかだった高井戸を記している。のちに環状8号線ができ、公団住宅は六年前マンションに建て替えられた。武田泰淳は昭和48年「快楽」で第5回日本文学大賞、昭和51年「目まいのする散歩」で第29回野間文芸賞を受賞。主な作品に「ひかりごけ」「蝮のすゑ」「富士」がある。
 夫人の武田百合子(1925-1993)はエッセイスト。泰淳の周辺を書いた「富士日記」は貴重な文献だ。            
                

      トップページに戻る    杉並区地図に戻る  久我山界隈その1に戻る