久我山界隈其の1


 久我山は世田谷区三鷹市に接し、神田川、玉川上水ふたつの川の流れと坂をあわせもつ街で、区内に京王井の頭線三鷹台、久我山、富士見台各駅がある。

久我山駅北口を出て、賑わう商店街すぐの十字路を右に行くと馬車みちと呼ばれる通りで、人見街道に合流するが、その少し手前左手、石垣の上に小高い邸がみえてくる。日本を代表する文学者のひとり、伊藤整(19051969・JR中野駅周辺界隈その2でも紹介)が、昭和29年から終生住んだ邸で、庭木の間にのぞく二階建てが、静かなたたずまいを見せている。

蘆花の家のことなど」の中で、「いま私の住んでいる吉祥寺の近くの井の頭沿線はすっかり都会の一部分になった。しかしまだ窓から遠くを見ると、あの欅の大木が方々に立っている。武蔵野の景色で最も私の好きなのは欅の巨木である。箒を立てたように冬は空に向って枝をひろげ、春には目が覚めるように緑の葉をつけて、大きなかたまりになり、風にゆれるのはまことに美しい。」とあり、このあたりに武蔵野の面影を感じ居を構えたように思われる。だがこの街にも欅の大木は少なくなった。

伊藤整旧宅附近伊藤 整旧居附近

 伊藤整は北海道小樽生れ21歳で詩集「雪明りの路」を出版、翌年上京し百田宗冶、三好達治、坂本越郎、丸山薫らの「椎の木」同人となる。昭和7年第一小説集「生物祭」を出版。短編「生物祭」は、父危篤の報で故郷に戻りみとるという話で、死にゆく父をみつめる目に、北国での春を一斉に急ぐ生物たちの息詰まる生殖の営みが、華麗にうつる。

父の薬をもらいに行き「……白い看護婦たちの忍び笑う声を内包した病院の建物の外で、桜は咽せかえるように花粉を撒きながら無言のうちに生殖し生殖しそして生殖している。(中略)総ての花や女等はなにかを分泌し、分泌して春の重い空気を一層重苦しくしている。だがその春は私のものではない……」と父の死を思う。抒情ゆたかな散文詩といってよい名作だ。昭和8年第二小説集「イカルス失墜」を刊行。同10「馬喰の果て」「石狩」。そして同12「幽鬼の街」を書いた。

戦後、昭和25年にロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳出版したが、内容が猥褻だとして起訴され裁判になり、昭和32年、最高裁まで争ったことはよく知られている。「女性に関する十二章」「若き詩人の肖像」「氾濫」「変容」「日本文壇史」など注目される作品を書き、評論に「小説の方法」「伊藤整氏の生活と意見」などがある。「日本文壇史」は昭和27年から書き継がれ中絶、全18巻で終った。昭和38年には第11回菊池寛賞、昭和42年には第23回日本芸術院賞を受賞した。昭和37年から高見順、小田切進等と、日本近代文学舘〔目黒区駒場4丁目3〕の設立に尽力し、初代理事長、高見順死去の後、昭和40年に理事長就任。昭和445月体調が悪くなり入院、手術をうけたが、11月病状あらたまり64歳で死去した。死後、同45年「変容」で第2回日本文学大賞を贈られた。

「病中日記」によると、よく一時帰宅をしたが、8月頃には二階のベランダで鉢植えをし、93日には久我山の書店で「草花案内」を買い、二階のベランダで鉢植えの世話をするが、力の衰えは仕方なしと記し、15日には力ないが気分転換に植木の世話をしたこと、さらに17日には「枝釣草の移植のため鉢を二つ買わせ、また如露、ポリバケツ、腐葉土、砂土などととのえて、枝釣草とデンドロデュームを一つ大きな鉢に移す。楽しい仕事なり。夜は三つの硯箱を整理……文字を書く力はないが、字を書く気持をたのしむ」と記している。また眼病で度々南口にある久我山眼科に出向いたが、その折に井の頭公園まで足をのばしコカコーラを飲んだり、別の日はアイスクリームを食したことが綴られている。その日々はたまさかの安らぎだったにちがいない。平成17年には生誕百年を迎え、生地小樽の市立小樽文学舘などで、記念祭が行なわれた。

                        那珂太郎居宅附近  那珂太郎宅附近

 馬車道通りの伊藤邸先の三叉路を左に折れると、昔かさもり地蔵があったといわれるかさもり坂になる。坂がつきあたる「うえみち」通りを左折した近く(久我山5丁目―8)に詩人那珂太郎(1922ー  )が住む。空我山房と称す玄関先はみどりにあふれている。

現代詩の巨星、西脇順三郎(18941982)を師と仰ぐ那珂太郎の詩風は、読むものに不思議な感動を与えてくれる。詩集ETUDES」「音楽」「はかた」「空我山房日乘其他」幽明過客抄」久我山うえみち通り魂歌」「時の庭」などの随筆集がある。昭和40年第17回読売文学賞を詩集「音楽」で受賞、平成16年には日本現代詩人会名誉会員となる。過ぎた人への死生の思いを綴る漢文戯作調の「空我山房日乘其他」の中「有為無終」では、近くの久我山稲荷神社(久我山3丁目37)を描いている。「(前段略)夕刻、杖ヲ曳キテ五六町距タル鎮守ノ稲荷神社ニ赴ク/杉木立ニ覗ク朱(あけ)ノ鳥居ノ横手ヨリ境内ニ入レバ……」と夕闇の神社祭礼の光景を描き、そして寂れた絵馬堂の額に、久我山村当時の古絵地図をみつける。それにはいま住んでいるあたりは鬱蒼とした杉林がしげり、北には一軒の人家もなく荒れ果てた墓原が拡がるだけだったのを知る。漢文体が効果的に使われ、詩人の心象風景を見せてくれる。 
 
 「うえみち」通りを進むと駅前商店街に戻るが、その通りを右折し、次の角を左に200メートル少し行く右角の奥まったあたり(久我山4丁目47付近)に、昭和25年から同36年まで、向田邦子(19291981)が、シナリオライター、作家としてデビューする以前、家族と住んでいた。この頃のエピソードをのちに「警視総監賞(霊長類ヒト科動物図鑑収録)」「恩人(眠る盃収録)に書いている。久我山の駅から夜遅く帰宅の途、自宅付近で痴漢に襲われ難をのがれたが、どうにも腹が立ち、勤め先の帰り井の頭線の車内を探して歩き痴漢をつきとめたのだ。そのお手柄に警察は警視総監賞をというが、父親は「絶対反対、もっての外と大怒りなのである。/たとえ未遂であっても痴漢に襲われただけでもみっともないのに、女だてらに捕まえたなど、更にみっともないという」ことで沙汰止みになったという。「恩人」ではその後、街中でその痴漢に会うのだが、知り合いのようにニコニコと挨拶をしてくる。「一体、これはどういうことなのか。いくら考えても納得がいかなかった」そして同じ頃、一人の少年を事故からかばって助け、右足に怪我をした。その時少しきつく少年をたしなめたのだが、その後、出逢うと少年はおびえた目になり人ごみに逃げ込んで行ったのだ。これも納得いかない。ふつうはこの逆であろう。「ところが、私の場合、事実は逆だった。痴漢は目を輝かして挨拶し、少年は、目を伏せて逃げ出したのだ。人さまざま。簡単にきめつけてはいけないということを教えてくれたとすれば、痴漢と少年は、私の恩人ということになろう」と結ぶ。その哲学はなるほど向田文学が描く人間像に現れているように思える。昭和58年短編連作「かわうそ」他で第83回直木賞を受賞したが、同56年台湾旅行中に飛行機事故で死去した。
 

久我山稲荷高台にある久我山稲荷神社

 那珂太郎の詩に描かれた久我山稲荷神社は、すこし先の十字路を左折し、坂をくだって東陸橋を渡るとすぐだ。古来から村の鎮守として守られてきた。祭~は保食命(うけもちのみこと)。その名のごとく食べ物、特に稲をつかさどる~で、保食には財産を守るという意味もあるという。明治40年天祖神社(~明社)を合祀した。(久我山稲荷神社ホームページより)。境内には朝鮮の志士金玉均にまつわる「人心同」の碑があり、鳥居のあたりからは、神田川周辺に広がる久我山の街が見おろせる。

 

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