鷺宮界隈その2


西武新宿線鷺宮駅南口を出て妙正寺川沿いを右に、バスの走る中杉通り八幡橋を横断して上流に歩き、区立鷺宮体育館、鷺宮西住宅そして区立西中野小学校の裏手を過ぎ、橋の数にして六つ目の井草下橋に出る。ほぼ杉並区との区境になる。橋際に小公園のある角を右折し北に200メートルほど行くと突き当り左手の角が栗林で、そこを左に行き、右ひとつ目の坂をあがったあたり(白鷺3丁目19付近)大田洋子(19031963)が、昭和33年から住んだ。

  大田洋子旧宅のあった付近の栗林

 大田洋子は昭和14年自伝小説「流離の岸」を刊行。翌15年、朝日新聞懸賞小説に当選した「桜大田洋子旧宅附近の栗林の国」は高峰三枝子、笠智衆などの配役で映画化された。昭和20年疎開した広島の地で遭遇した原爆体験を綴った「屍の街」は、戦争の悲惨さを世に知らしめ人々に衝撃を与えた。昭和26年同じ原爆を主題にした「人間襤褸」で第4回女流文学賞を受け、昭和29年芥川賞候補になった「半人間」は昭和29年度平和文化賞を受賞した。昭和38年、心臓麻痺により60歳で死去した。 
 死の4年前に82歳になる母を失った。その時の様子を「母の死」に記している。「西武電車で三っ目の野方の町に遊びにゆき、映画を見、五時間も外にいて帰ってきた。次の日は鷺宮の商店街が特売日だといって、自分の顔につけるバニシングク古木鐡太郎旧居リームと、松茸と栗を買うのを目あてに、また出かけた。帰ってくると縫い物をし、普通に夕食をとり、手伝いの者の手助けに、流しもとの食器を洗ったりした」しかしその夜、油汗を流してくるしみ、酸素吸入と人工呼吸をしながら、脳出血で亡くなった。その母にとって鷺宮の街は欠かせない日常だったにちがいない。

古木鐵太郎旧居付近
 鷺宮駅に戻り北口中杉通りひとつ目の信号交差点を左に曲り、その先区立第八中学校掲示板の角を右折して坂を登りすぐ左へ折れるあたり
(鷺宮4丁目31)に、古木鐵太郎(18991954)の旧居がある。世に知られていないが、鐵太郎は井伏鱒二を中心とする阿佐ヶ谷会の一員。葛西善蔵、滝井孝作の影響を受け、独自の作風で身辺小説を書いたが、昭和2955歳で不遇にも病に倒れた。生前の著作は「子の死と別れた妻」上林曉と共著の「現代作家印象記」のみだが、没後その死を惜しまれ昭和34年追悼集「紅いノート」他が出版されている。平成17年復刻版「大正の作家」が刊行された。昭和7年頃から鷺宮近辺に住み、昭和13年この地に居を定めた。「この鷺宮に越して来てからもうすぐ一年だ。(中略)家の前には広い草原があり、その向うが低くなつて田圃、田圃の中に西武電車が走つてゐる。秋にはこの原にススキが沢山生えた。田圃では稲を刈つてゐるのが家の中から見えた。」(随筆「鷺宮」)当時まだ区立第八中学校や家並はまったくなく田畑だったのが分る。このあたりの風物を綴った随筆が多く残されていて、昭和16年に書かれた「強雨寸景」に「……昨日は終日家にゐて、戸外の雨をぼんやり眺めてゐたが、向うの田圃には小川
〔㊟妙正寺川〕の水が一杯溢れて、湖のやうだ。その田圃の此方側を西武鉄道が通つてゐるのだが、危く水に浸される感じで、さつきから蓑笠を着けた沢山の工夫達が強雨に濡れながら、その一箇所を直してゐるのが見えた。電車は徐行しながらやつとの思ひで通つてゐる。夕方、うつとほしい気分を晴らしたい気持で戸外に出てみた。鷺宮駅付近が一番ひどいらしいので、行つてみると、一番低くなつてゐる駅前の辺りは一尺くらゐの浸水だ。駅から出て来る人たちは、男も女も子供もみんな靴をもつたりしてざぶざぶ歩いて来る。バスは波をけたてゝ勇ましく走つてゐる。私は店の軒下に立って少時それらを眺めてゐた。」とあり、そうした光景は昭和45年妙正寺川治水工事完成まで繰り返された。往時を知るには貴重な記録である。                    

このあたりから北西方面に新青梅街道とほぼ並行に歩くと、鷺宮5丁目から6丁目になる。その区立鷺六公園近く(鷺宮6丁目20)に、清水一行(1931)が住む。経済小説の草分け的存在で、昭和50年「動脈列島」で第28回日本推理作家協会賞を受賞。著作に「小説兜町」「動機」「重役室」など多数ある。

重兼芳子の住んだマンション重兼芳子の住んだマンション

 鷺宮といっても上鷺宮は練馬区に接した地区。西武池袋線富士見台駅南口からふじみ銀座をすすみ、次の通りをよぎると、千川通りの信号交差点になる。その向かいあたりの瀟洒なマンション(上鷺宮4丁目6)重兼芳子(1927 1993)が昭和57年頃から住んだ。「ベビーフード」「髪」が芥川賞候補作となり、昭和54年には「やまあいの煙」で第81回芥川賞を受けた。カルチャー同人誌からということ、また50代という晩成のデビューで注目された。「うすい貝殻」「透けた耳朶」「ジュラルミン色の空」などの文学作品のほか、生と死、老人問題、ターミナルケアに深い関心をよせ、「たとえ病むとも」「いのちと生きる」「聖ヨハネホスピスの友人たち」など身辺の死をみつめ人間存在を問いかける書を、そしてホスピスのボランティアとしても活動したが、66歳でガンに倒れた。
 上鷺宮のマンション暮しを「女房の揺り椅子」ではユーモラスに描き「ひっこし後の初仕事」として「……荷物をほどく前にやらなければならないことがある。新しい家の近所にゆきつけのスナックや飲みやを開拓すること」そして「……昨夜もそのつもりで向いのスナックに顔を出してみた。タオルでねじり鉢巻をしたおつさんが十人くらい、ずらっとカウンターのまえに腰を掛けてた。隅っこの方で小さくなって飲んでたら『おばさん、あんた亭主持ちか』と声をかけられ盃をさされた。/私は盃をさされるの苦手なんだ。『おれの酒飲めねえのか』セマられると、なんだかバイキンがうじょうじょいるみたいで、ますます盃に手を出せなくなる。それに私だって女だ。オカされる危険性だってある。思わずオカンジョウと叫んで立ち上り、その店を飛びだした。/この調子ではゆきつけの飲みやを開拓するのに何年かかるかしら」と記したが、すぐにくつろげる店を見つけたにちがいない。

 「やまあいの煙」は昭和60年「愛しき日々よ」の題名で映画化された。保坂延彦監督、門田頼命、かたせ梨乃、鰐淵晴子のキャスト。火葬場で働くひとりの男の生き方を感銘深く描いた作品を覚えている方も多いだろう。

魚佛詩集                           「魚佛詩集」表紙

 詩人、緒方昇(1907 1985)は鷺宮の住人だった。新聞記者で戦後は論説委員も勤めたが、詩誌「p程」に参加、戦後は「日本未来派」の創刊にかかわり、釣りの詩を書いた。釣りには造詣がふかく著書も多い。井伏鱒二をはじめ文学者のあつまる釣りの会「雑魚くらぶ」の会員でもあった。昭和45年刊行の「魚佛詩集」は第22回読売文学賞を受賞。作家、井上靖の詩集「北国」は、緒方から「日本未来派」に掲載をすすめられたのがきっかけで、詩集に纏められたという。

西武新宿線都立家政駅北口商店街を行き、ギャラリー・ドリームの角を右折してふたつ目の十字路を先に行くと農家につきあたる。そこから右寄りにみえるあたり(鷺宮1丁目24)にかつて詩人が住んだ。「魚佛詩集」からの一編「魚信」の初節はこう書かれている。                                           
「藻にあそぶ小魚よ/海底にひそむ大魚よ/この釣糸をつたって/きみたちのことばを/聞かせておくれ」

 昭和42年の釣りエッセイ「魚との対話」で、戒名を碧海院日升魚仏居士と自ら称し、魚仏の由来を、つり人には釣った魚を捨ててかえりみない者がいる。魚をとることが目的なら漁師だし、魚を釣るだけが興味ならば、こどもが虫けらや小動物をとらえて、いじめ殺すのと同様に、単なる「殺し屋」にすぎない。殺生戎を犯しながらも、釣った魚を腹中に納めて成仏させてこそ、真のつり人といえるのではあるまいかと、書いている。没後20年、近隣で詩人を知る人はもういない。         

 平成16年から一年間かけて放映されたテレビ朝日系の「五木寛之の百寺巡礼」を熱心に視聴した方も多いだろう。ときに72歳、背筋をぴんと伸ばし端正な表情で険阻な参道を登る姿に、修験者が思い合わされた。平成16年仏教伝道文化賞を受賞。老躯を駆って全国に散在する古刹百寺めぐりを達成され、感慨ひとしおだったであろう。

 五木寛之(1932− )は昭和29年の若き日、若宮3丁目35の三雁荘という木造二階建てアパートに、早稲田大学二年から三年にかけ住んでいた。

五木寛之の住んだ三雁荘附近 五木寛之の住んだ三雁荘のあった付近

 大きくうねる妙正寺川に取囲まれた地域で、西武新宿線都立家政駅南口からつづく長い商店街を進み、突き当る萬政米店の角を右に行き二叉路を左にとり、四つ目の変形十字路の左あたりになる。昭和54年、雑誌「面白半分」いま、五木寛之の特集で三雁荘を再訪した折には、廃屋寸前となっていた。「失われた部屋を求めて」というグラビア記事で「ミツカリソーという名前の木造アパートなんだけれど、この辺は昔はタンボだったんだ。どうもすっかり様子が変ってしまってミツカリソーもないね。あ、この辺ですね。なるほど、やはりこれも取りこわし寸前か。うん、この部屋です。便所も水道も共用で、向いの部屋にマンドリンをひくキャリアウーマンが一人で住んでいたんだ。……(以下略)」と書いている。その建物はまもなく建て替えられた。そこから歩いてよく邦画の野方名画座、洋画の高円寺平和座に通ったそうだ。劇場はスーパーマーケットなどに変ってしまった。その頃、中野駅北口の一画を中心に出没し、名曲喫茶「クラシック」(中野4丁目66)へは一杯三十円のコーヒーで半日くらいは入り浸っていたそうだ。

 いまはない喫茶クラシック       廃業した「クラシック」は取り壊された

 JR中野駅北口の、当時は美観街と呼ばれた一角にある昭和5年創業の老舗「クラシック」は骨董コレクションやマスターの絵で飾られたレトロな雰囲気で、再訪の記事では「……ここで小説や評論を書いたものです。マスターは画家で、昔のママはコミュニストだった。娘さんはヨシコちゃんといって、当時の学生の憧れの的だったんだが、マスターも、ヨシコちゃんも、店と同じでほとんど変ってないね。それにしても混んでるなあ」とあるが、平成171月末に閉店となった。先代のマスターがなくなったあと、一人娘のヨシコさんが跡を継いだが、三年前に急逝し、その後を引き継ぐ人がなかったそうで、惜しまれる。

 五木寛之は昭和41「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞してから、「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞、「青春の門」で吉川英冶文学賞。エッセイ「風に吹かれて」はロングセラーになっている。平成5「生きるヒント(自分の人生を愛するための12)は、喜怒哀楽をテーマに生きることはなにかを語りかけ、人生に勇気を与えてくれる。平成10年刊行の「大河の一滴」はざっくばらんな語り口で、誰でもが心の奥に抱く不安や悩みについて、体験をもとに癒しへのヒントを語ってくれる。「人はみな大河の一滴」の中で「私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、確実に海へとくだってゆく。(中略)いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還ってゆく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか」と説く。五木文学の根源に触れる書かも知れない。

映画「大河の一滴」は平成13年に、五木寛之の原作・原案、新藤兼人脚本、神山征二郎監督、キャスト安田成美、渡部篤郎、セルゲイ・ナカリャコフ、三国連太郎他で上映された。愛と生と死をめぐるひとりの女性の心の旅を描いた人間ドラマは、ぜひ見たかったものだ。

「天命」は、生きることの意味を問いつづけてきた五木が、さらに「生と死」について明察した、注目したい著書である。その延長線にある中高年層にむけての新刊「林住期」がいま話題になっている。人生百年を四つにわけた、50才から75才の時期を林住期と名付け、仕事を離れ、真の生甲斐をさがす 時期として、その生き方を説いている。                 

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